「いと高き神、天と地を造られた方より」 教会標語⑦

創世記14章13-24節
牧師 松元 潤

 渡辺和子さんが大きな手術を体験した教え子からもらった手紙を、著書の中で紹介しておられました。思いがけない病気で子供が産めなくなった卒業生が、結婚相手から「〇〇ができる君ではなく、君が君だから愛しているんだ」と言われた時に、愛の本当の価値がわかったと記された手紙でありました。その卒業生は、生涯相手との夫婦の関係を大切に歩んでいきたいと改めて決意したのです。
 私たちが状況によって失うことのない神からの祝福を受け取って生きるためには、神が自分をどのような存在として見ておられるのかを知っていなければなりません。神は私たちが神に敵対する罪ある存在として生きている時に、私たちを愛し御子を十字架につけてくださいました。ですから、私たちがどのように弱い時にも私たちを見捨てることはありません。その神の愛の価値を知っているなら、私たちは周囲に流されないで神に喜ばれることを選び取る強さ・勇気を持つことができるのではないでしょうか。アブラムもまた神に愛されている者として、何よりも神の祝福を選び取る歩みをしました。この「いと高き神、天と地を造られた方」である神から私たちに注がれている祝福について考えてみたいと思います。

Ⅰ.第1に、「いと高き神、天と地を造られた方より」もたらされる祝福は、苦しんでいる相手を助けるための励ましができる交わりである、ということです。
 アブラムと別れてヨルダンの低地ソドムに移り住んだロトとその家族は、しばらくは豊かで便利な生活を送っていたかもしれません。しかし、そのような地域の住人であるだけに、近隣諸国の王たちが
ソドム・ゴモラの5人の王たちに攻撃を仕掛け「すべての財産とすべての食糧を奪って行った(11)」のでした。さらに「彼らは、アブラムの甥のロトとその財産を奪って行った(12)」のです。そしてロトたちは戦勝国の捕虜としてメソポタミヤの地に連れて行かれる途中に、アブラムはその救出に向かうことになります。アブラムが持っていた良い人間関係(13)によって、詳しい情報がアブラムの耳に入ったからです。アブラムは「彼の家で生まれて訓練された者318人を引き連れて、ダンまで追跡し(14)」ました。
 ソドムとゴモラに勝利した王たちなのですから、普通なら勝てるはずもありません。しかしアブラムは「夜」「しもべたちは分かれて」「すべての財産を取り戻し、親類のロトとその財産、それに女たちやほかの人々も取り戻した(16)」のでした。ロトは未熟であり、叔父への感謝や尊敬よりも、自分の利益を最優先にして自らソドムの地を選びました。その経緯を考えるなら、アブラムが危険を冒して助けに行く義務はなかったでしょう。しかし、アブラムは命がけで、ロトたち家族を救い出すために行動したのです。神の祝福の約束を信じていたからです。私たちもまた、神の祝福の約束を信じて共に歩んでいる者として、他者の問題や不足を追求する以前に神の愛を分かち合うために相手を助けることを選んでいるかどうか考えてみたいものです。

Ⅱ.第2に、「いと高き神、天と地を造られた方より」もたらされる祝福は、同じ神を見上げる信仰の交わりをもたらす祝福である、ということです。
 アブラムがロトたちを救い出してヘブロンの地に戻ってきた時、彼を出迎えてくれたのは「ソドムの王(17)」「サレムの王メルキゼデク(18)」でしたが、二人の心の態度は違っていました。メルキゼデクは、アブラムに対する好意を持って、祝福するために贈り物を「持って来た」ことが言い表されています。メルキゼデクは「いと高き神の祭司」として、同じ信仰を共有する者としてアブラムの前に立ったのです。そして、「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に(19,20)」と、神を賛美しています。この勝利はアブラムの力ではなく、天地万物を支配する神に栄光を帰す宣言です。
 普通なら、自分が払った犠牲を主張しても当然の状況です。わずか数百人の自分の身内を引き連れて、負けて当たり前の戦いに挑んだのです。しかも、恩知らずと言われても仕方がない自分の利益を優先した甥のロトのためにです。メルキゼデクのことばに、アブラムの犠牲を称える内容はありませんでした。しかし、アブラムはメルキゼデクのことばに賛同したのです。神の憐れみによって、神の祝福がもたらされた勝利であることを知っていたからです。だから、神への感謝を祭司としてのメルキゼデクの手に渡しました。ヘブル書では「彼に一番良い戦利品の十分の一を与えた」と証言されています。
メルキゼデクとアブラムは初対面です。特別に親しく生活を共にしてきた仲間でもありません。しかし、同じ神を褒め称える信仰の交わりの中でどちらも、神がどのような方で、神の約束によってもたらされる祝福は真実であることを確信しているのです。神の約束に導かれて歩んでいる者は、同じ神の愛の土台を生きていることを知っています。私たちもいつも、同じ神を見上げる交わりをさせていただきたいものです。

Ⅲ.第3に、「いと高き神、天と地を造られた方より」もたらされる祝福は、私たちに正しいことを選ぶ識別力を与えてくれる、ということです。
 アブラムはメルキゼデクとの対面の後、ソドムの王と対面します。そして、「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください(21)」と言われるのです。ソドムの王は真っ先に負けた王ですから、ずいぶん自分勝手な申し出です。アブラムは戦いの勝者ですから、その要求を聞く必要もなく、まして財産も受け取って当然の立場でした。しかし、アブラムは信じられない決断を下しました。自分の当然の権利を手放したのです。人々どころか、財産までもソドムの王に返しました。アブラムが人格者だったからではありません。アブラムの決断の理由は「私は、いと高き神、天と地を造られた方、主に誓う。糸一本、履き物のひも一本さえ、私はあなたの所有物から何一つ取らない。それは『アブラムを富ませたのは、この私だ』とあなたが言わないようにするためだ(22,23)」というものです。神の祝福の約束に生きている自分の立場を証しするためでした。
 また、「ソドムの人々は邪悪で、主に対して甚だしく罪深い者たちであった(13:13)」とあることから、アブラムは罪深い人たちと人間的に仲良くなることを避け、自分自身が罪を犯さないために正しい距離を取ろうとしたのです。神の愛は、私たちを罪に誘う交わりを避けるための識別力も与えます。アブラムは一方で、「ただ、若い者たちが食べた物と、私と一緒に行動した人たちの取り分は別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの取り分を取らせてください(24)」と語り、自分の生き方をしもべたちの権利は侵害することなく積極的に守ったのです。神の祝福は、アブラムに命がけで他者を助ける勇気を与え、罪を悔い改めない者に対しては距離を置く識別を与えました。
 神の愛、神の祝福は、私たちが心地良いと感じたり、私たちを自己中心にとどまらせるようなものではありません。「いと高き神、天と地を造られた方」から来る愛であり、祝福なのですから、私たちを神のみこころにかなう生き方へと向かわせるものです。どんな時にも、神に愛されている自分を忘れず、神が喜ばれることを選び取って歩みたいものです。