「さあ、目を上げて」 教会標語⑥

創世記13章14-18節
                                                      牧師 松元 潤
       
 私たちは自分の力と知識だけで頑張り始めると、視野が狭くなりがちです。人間関係や物事を、自分の価値観、自分に見えていることだけで判断するので、他の人の考えに耳を傾けて柔軟に考えることが難しくなるからです。福音書の中で一人の盲人を巡るイエスと弟子たちの対話は、神の視点と人間の視点の違いを明らかにしています。盲目を、誰かの罪のせいで起こった不幸と考える周囲の人々に対して、「神のわざが現れるため」とイエスはお答えになりました。
 私たちも自分にとって都合の良いことは幸せであり、不都合なことは不幸だという考え違いをしやすいものです。しかし聖書は、物事に対する私たちの狭い見方や決めつけから目を上げて神の広く深い考えを知ることができるようにと、私たちを導くのです。神はロトと別れたアブラムに「さあ、目を上げて」と、語りかけました。目を上げて生きる信仰の歩みについてご一緒に考えてみましょう。

Ⅰ.第1に、「目を上げて」とは、神の視点に立って私たちの視野を広げることです。
 愛する甥のロトを優先して、あなたが左なら私は右に、右なら左に、と、お互いの間で争わない別れ方を選んだアブラムでした。しかし、愛するロト家族がいなくなった寂しさがあります。また、明らかに肥沃な土地を譲ったのですから、これからの生活に不安がないわけではありません。その状況のアブラムに主は「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から北、南、東、西を見渡しなさい(14)」と命じました。生き方の中心軸を神との関係にしっかり置いて、神が用意しておられる豊かな世界に希望を抱くように、という励ましです。
 神には今だけではなく、これから始まるアブラム一族の壮大な歴史が見えています。私たちの心はその神が用意しておられる世界を見なければなりません。イエスはルカの福音書で「あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです」とお語りになりました。心をどこに向けているか、そのことを聖書は一貫して重要なこととしていて、ヘブル人への手紙でも「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」と語っています。寂しさと心細さが胸に去来するアブラムに向かって、「わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす(15,16)」と高らかに宣言なさいました。
 足元の現実だけを考えるのではなく、神のご計画という視点に立つと、自分の人生の見え方が変わるのです。かつて主がアブラムに現れて下さった時の約束は、「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える」というものでした。その際の約束の「地」は単数形でしたが、ここでの「この地をすべて」という約束の地は複数形で表現されています。今手にしている以上の広大な土地があなたのものになるという、神の具体的な励ましなのです。神の約束の確かさが、抽象的なものでもなく漠然としたものでもないことが強調されているのです。約束をアブラム自身に確認させるために、神は「立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから(17)」とおっしゃいました。神の祝福は、なんとなくの気持ちの問題ではありません。具体的で確かな約束なのです。目を上げて、神の約束を思い出し、神のご計画を見て歩みたいものです。

Ⅱ.第2に、「目を上げて」とは、今私たちの中に起こっている問題もまた神のご計画とつながっていると信じることです。
 また、アブラムにはロト家族に対する心配もありました。それはソドムという町の評判です。「ところが、ソドムの人々は邪悪で、主に対して甚だしく罪深い者たちであった(13)」と説明されています。人間はみな罪人ですが、ソドムに関する特別な表現は、そこが目に見えて倫理的に腐敗・堕落した人々の町であった、ということです。当然、アブラムはロトたち一家を心配したでしょう。しかし、ロトの考えを強制したり支配することはできません。ペテロが後に証言しているように、ソドムの町の中では正しい人であったとされるロトを信頼し、また神に祈るしかありませんでした。そのような問題も含めて、主はアブラムに「目を上げて」と、神に委ねることをも促したのでした。
 そして、アブラムは40キロほど離れたヘブロンの地に移動して、天幕を張り、主のための祭壇を築きました。アブラムは礼拝者として「目を上げ」たのです。ヘブロンは豊かさという点ではソドムにかなわない町でしたが、標高1,000メートルの丘にあり、地理的な不便さのゆえに敵の攻撃から守られてきた町でした。ソドムはそのすぐ北に位置しました。しかし近くでありながらソドムがエラムという国の支配の中にあったのに対して、ヘブロンはその支配の外にありました。ヘブロンのすぐ南にエジプトの影響があったからです。ヘブロンは敵の攻撃から守られていながら、いざとなればソドムのロトを助けることのできる距離にあった、ということです。ここにも神の配剤を知ることができます。一見、アブラムは損失を被ったように見えますが、神が導いたところは、アブラムにとってもロトにとっても最善の配慮に満ちた場所であった、ということです。
 苦しみや悲しみ、自分にとっては問題としか思えない出来事が、「目を上げて」静かに神に従う歩みをすることで最終的に神の祝福を体験していく道となることをアブラムの歩みは教えています。私たちは皆、神のご計画の中に置かれています。神は神を信じるすべての人に対して真実です。神に従う者を神が見捨てることはありません。足元の現実に心を奪われ、問題を大げさに感じたり、神に委ねるより自分の信念で間違った追求をしたりしやすい私たちですが、「目を上げて」主の約束を見て歩みましょう。主は、あなたのために長い時間の中であなたにとっての最善を明らかにしてくださるのです。