「アブラムは主を信じた」 教会標語⑧

2018年9月
創世記15章1-6節
牧師 松元 潤

 デビッド・ベッカムという、3つのW杯でゴールを決めたサッカー界のスーパースターがいます。その母親であるサンドラさんは、「息子のプレイを周囲が有り得ない奇跡のように持ち上げたとしても、私にとっては驚くほどのことではない。あの子が幼い頃からキッチンの窓から、小さなこともできずに失敗しながら四六時中リフティングを繰り返してきた姿を毎日見てきた。だから、どんなスーパープレイも今までのあの子なら当然だと思える」というような発言をしていました。相手がどんなことをし、どんな存在であるかを見続け、交わってきた人間にとっては、目の前に起こった出来事は昨日までの延長であって、信じることは他の人ほど難しい話ではないのです。
 神との交わりが毎日積み重ねられている信仰生活においても、神がどのような方であるかを体験し知り続けている人間にとっては、神の約束のことばは信じるのが不可能なものとはならないのではないでしょうか。神は今日のところでアブラムに対して、今までのアブラム自身の信仰の体験をもとに御自分との関係を問われます。アブラムにとってはどのような主であるから「信じた」のでしょうか。共に考えて見ましょう。

Ⅰ.第1に、主を信じるということは、自分が弱い時に「恐れるな」と励ましてくださる方が共におられるのを知っていることです。
 「これらの出来事の後」と言われるように、アブラムは強大国エラムに対する人生初めての戦争に勝利しました。神が勝たせてくださったのです。アブラムもまた、神の憐れみによって勝てるはずのない戦いに勝利したことを自覚していたでしょう。今回は、大丈夫
だった、しかし今後はどうなるだろう。アブラムの中に不安はあったのです。だからこそ、主は、「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である」とアブラムに語りかけてくださいました。続いて主は「あなたへの報いは非常に大きい」と言われました。
 しかし現時点において、アブラムの最も深い願いが満たされていません。アブラムは「神、主よ、あなたは私に何をくださるのですか。私は子がないままで死のうとしています」と訴えます。神の祝福の約束は、アブラムの子孫を増やし彼を大いなる国民とするというものであったはずです。80代になっていたアブラムはその約束を思い巡らし、「あなたが子孫を私に下さらなかったので」と、自分に思いつく跡取りの名前を口にするのですが、神は「その者があなたの跡を継いではならない」と強く禁止します。優しい言い方ではありません。禁止なさったのです。イエス・キリストも会堂管理者の娘が死んだ時に泣いている人たちに向かって「恐れないで、ただ信じていなさい」と叱りつけました。いのちに関わる問題だったからです。いのちを得るか失うか、それは真の神である主の御手によるのです。その主が私たちに求めておられるのは「恐れるな」ということであり、いのちの主権者である主に信頼するように、ということです。私たちにとって最も大切なものを与えてくださる主が共におられることを知っている信仰生活を歩みたいものです。

Ⅱ.第2に、主を信じるとは、自分の足元の現実を見つめることから、神に見えている世界へと目を転じることです。
 主はアブラムの不安に対してさらに明確に「ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない」とおっしゃいました。80歳を超えたアブラム自身の肉体を通して生まれてくる血肉の子孫であることを神は明確になさったのです。常識では考えられません。自分自身を見ると、なおさら考えられません。そこで主は、アブラムを外に連れ出して、「さあ、天を見上げなさい」と言われました。神はご自分の約束の確かさを示すために、具体的な計画について説明なさったのではありません。ただアブラムに、神が所有し神が働いておられる広い世界を見せたのでした。外に連れ出されたということは、今までアブラムは天幕の中にとどまって「ああでもない、こうでもない」と考え続けていたことを感じます。外に出たアブラムが天を見上げた時、さらに主は「星を数えられるなら数えなさい」とおっしゃいました。このことばで、神の広い世界に目を向けることと同時に、人間の限界を考えさせています。神の世界の中で、自分が見聞きでき、知る世界はどれ程小さく狭い世界であるかを改めて気づかされるのです。そのアブラムの視点の変化に従って、神は「あなたの子孫は、このようになる」と宣言なさいました。
 そのことばを聞いて「アブラムは主を信じた」のです。「主を信じる」ということばは、元のことばでは「アーマン」で、真実です・主よその通りです、という意味です。主のことば通りであると認める告白なのです。自分の肉体を通して子どもが生まれてくるには問題があるように感じているし、子孫が増えるには現実は不可能な状況にしか思えません。しかし、自分が知り理解している常識の世界の中では起こりそうもない出来事であっても、自分を含めた宇宙全体という果てしなく広い世界を所有しておられる主の世界では可能な出来事なのかもしれない、と考え始めます。しかも、この方は、アブラムがどんな状況の時にもご自分の約束を守り続け、今日までアブラムの人生を支え導いてくださいました。父の家を離れて以来、アブラムは神の御真実を毎日のように体験してきているのです。だから、毎日語りかけ、毎日アドバイスをくださった神との歩みを振り返るなら、神のことばは必ず実現するに違いない、という告白に導かれました。ぼんやりと漠然と感覚的にではなく、アブラムは神の所有される世界の広さ深さを思い起こし、神のこれまでの自分に対する関わり方を思い出した時に、「主を信じた」のです。そのことを神はアブラムの義と認めてくださいました。テモテに対するパウロの手紙の中で「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである(Ⅱテモテ2:13)」と語られているように、アブラムもまた主だけが真実である、と告白したのです。
 主を信じることは、神という人格を信頼することです。それは漠然と自分の感情を表現することではありません。何も知らないまま、自分を思い込ませることでもありません。神がどのような方であり、自分とどういう関係を持っておられるかを知っている者の告白、神と共に歩んでいる者の告白なのです。そこに私たちの信仰の本質があります。たとえ現実には多くの失敗があったとしても、アブラムと神との毎日の歩みがアブラムの信仰を育て「主を信じた 主は真実です」と告白させたように、私たちも主との毎日のささやかな交わりを大切にして歩みたいと思います。主という方を深く知れば知るほど、この方の真実に目が開かれ励まされ、ますます希望を持って歩む私たちとなるはずなのです。