「主のゆえに従いなさい」⑦

(ペテロの手紙第一 2章13-17節)

 

私たちは自分の願うように事が実現することを願い、自分の一生懸命に対しては願い通りの報いが返ってくることを期待して歩んでいます。しかし、主に従う信仰の歩みとは、そのようなものでしょうか? モーセは「地上のだれにもまさって謙遜であった」と証言されています。モーセは不平不満を繰り返すイスラエルの民を忍耐と神へのとりなしを持って歩んだ偉大な指導者でした。しかし、彼は約束の地に入る事が許されず、主の命令によってモアブという異教の地で死ぬ事になります。モーセはカナンから遠く離れたピスガの頂に立ち、民を見送りました。イスラエルの民は、モーセの死を知らされた時に悼み悲しみますが、モーセを崇め奉る事がないようにモーセの墓がどこにあるかも知らされないままです。人間的に見れば、モーセが十分な報いを与えられたとは思えないかもしれません。しかし、それでも聖書はモーセの人生は神に選ばれ神に祝福された人生であった事を語っているのです。主に従った人生だったからです。

ペテロは迫害の中を生きるクリスチャンたちに対して、主に従う事こそが最も祝福された人生である事を語って励まします。苦しみ、悲しみの中で、それでも「主のゆえに従う」ことは、クリスチャンにとってどのような意味があるのかを改めて考えてみましょう。

 

Ⅰ.第1に、「主のゆえに従う」とは、社会の中の権威に従う事で主を証しする生き方である、ということです。

ペテロはクリスチャンの「従う」という生き方を、目に見える具体的な環境の中で現わすべき態度として明確にしています。13節で「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」と語りました。パウロもまた、ペテロが語る権威に従う生き方について、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ13:1)と説明しています。このことがクリスチャンの証しとつながっていることを、ペテロは12節で「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」と語ってきました。ペテロは命令の適用を「主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても」と続けて語り、クリスチャンが環境や相手のせいにして「従わない」言い訳をすることを認めません。王は当時の社会の裁く権限を持つ最高位の存在であり、総督は同じ権限を持つ最低位の存在です。最高位から最低位までの立場の権威について説明することで、ペテロは社会の組織について教えようとしています。総督に逆らうことはその上の元老院に逆らうことであり、元老院に逆らうことは皇帝に逆らうことになるのです。つまり、最も低い権威に従わないことが最も高い権威に従わないことと同じであるように、地上のどの立場の権威であろうと、従わないことは神に従わないことになる、ということです。権威とは、そのように連鎖しているものなのです。確かに、クリスチャンにとって理不尽な社会で、神を神とも思わない人の持つ権威に従うことは困難です。しかし、だからこそペテロは世において神を証しする力がそこに現わされるとして「主のゆえに従いなさい」という命令を強調したのでした。

 ペテロは権威に従う理由をさらに15節で明確に「というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです」と語ります。どんな権威であろうと、善を行うことは神のみこころです。もちろん悪を行うことは神のみこころではありません。使徒の働きの中でもペテロは、神のことばを伝えることを妨げられた際には「人に従うより、神に従うべきです」と主張しました。ダニエルもまた、偶像を拝むように強いられた時には従わなかったためにライオンの穴に投げ込まれました。しかし、ダニエルはほとんどのことにおいてはバビロンの王のために仕えて良いことを行ったのです。私たちは地上の権威に従わなければなりません。神のみこころを悲しませることでないなら、自分の言動の動機を振り返って忍耐して従うべきです。権威を否定することは、神を否定することにつながっているからです。どこにいても、自分の意見を通すことを最優先するのではなく、忍耐できること、譲れること、信仰のゆえに妥協できないことを識別した上で、多くのことは従うことができる謙遜な歩みをしたいと思います。

 

Ⅱ.第2に、「主のゆえに従う」とは、キリストにあって本当に自由にされている人だからこそできるのだ、ということを覚えなければなりません。

ペテロは従うべきこととその理由を述べた後、16節で「あなたがたは自由人として行動しなさい」と命じています。当時のクリスチャンにとって「自由人」ということばは大きな励ましでした。奴隷生活をよく知っていたからです。救われるとは、罪の奴隷という身分から解放されたことであるという、クリスチャンになったことの意味を彼らは理解できました。キリストにあって自分は自分として考え判断し行動できるということがどんなに素晴らしい喜びであるかも理解できたでしょう。信仰生活は、自分の判断と意志で主に従っているのです。それは喜びです。ヨハネはこのことを「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません」と表現しました。従う、ということば自体に拒絶反応を起こす人がいます。しかし、聖書は「従う」ということは、愛し愛されるという人格的な関係と密接な関係があると教えているのです。クリスチャンにとって、従うことは相手を愛しているか否かが問われることです。心から尊敬し愛する相手が「〜しなさい」と表現した場合、偉そうだという反発よりも、素直に従う思いになるのではないでしょうか。だから、神が私たちのために何をしてくださった方であり、どんな方かがわかっているなら、従うことが重荷になるはずはないのです。

ただし、自由の用い方に関しては注意が必要です。「その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい」と語っています。口実とは、隠すという意味のことばです。信仰という口実で、自分の憎しみを覆い隠して相手を攻撃する理由を正当化するような人間関係を持っていないか、自己吟味しなければなりません。神のみこころにかなう正しい行いに基づく人間関係には愛や平和があるはずです。兄弟姉妹の忠告に耳を傾けず、常に争いを引き起こしているとしたら、自分は本当に正しいことをしているのかどうか内省する必要があるのではないでしょうか。ペテロは、キリストにある自由によって従う生き方を選びとっているものの築く人間関係を最後に示しています。17節で「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい」と命じました。ここには世に対して証しとなる権威に従うクリスチャンの生き方が見事に要約されています。3つのことです。ⅰ)一つには、クリスチャン同士が愛し合って世にはない交わりを証しすること、ⅱ)二つ目には、自分自身を基準とせず神を恐れる歩みをすること、ⅲ)三つ目には、神がお立てになった権威を尊び重んじること、です。

愛すること、恐れること、権威を尊び敬うこと、という3つのバランスを私たちは自分の生活に当てはめて考えてみなければなりません。この3つは、バラバラのことではありません。互いにつながっているのです。権威に従えない人は、愛することをわかっていない人なのです。クリスチャンは、権威の源がどなたにあるかを知っているはずだからです。それがペテロが語っていることです。お互いに、主のゆえに従う者となりましょう。本当の意味で他者を尊敬し愛する者となって、キリストを世に証ししようではありませんか。