「あなたがたが召されたのは」⑧

(ペテロの手紙第一 2章18-25節)

 

イエス・キリストに似る、ということを私たちはどんなイメージで捉えているでしょうか。ある英国の説教者が書いた本の中に、キリスト教を断念し教会から離れた一人のビジネスマンを兄とする弟が「私の兄はこれまで会った最高のクリスチャンです」と証言した話が出てきます。また、マハトマ・ガンジーがインドで最もキリストに似ている人物として取り上げられたエピソードも語られています。これらのことは、キリストに似ているか否かの基準が信仰ではなく、道徳的な立派さというイメージが私たちの先入観としてあることを示しています。

しかし、キリストに似た者となるための最も大事な土台は、キリストを自分の救い主として告白し、キリストのことばを受け入れ従うことにあるのですから、上記の事例は聖書と矛盾しています。ペテロはキリストに似せられていく信仰者の歩みとして、私たちの生きる姿勢がどのようであるべきだと語っているでしょうか。ご一緒に考えてみたいと思います。

 

Ⅰ.第1に、キリストに似た者となるために召されたのは、「従うこと」において現わすことができます。

13-17節で「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」と、神の定めた秩序のもとで従うことについて考えました。さらに18節からペテロは「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい」と命じています。奴隷というとかつてのアメリカの奴隷制度を思い浮かべるかもしれませんが、それとは違ってギリシャ・ローマの奴隷という立場は、主人の命令のもとでそれぞれの役割を果たすことが働きなのであって、すべての奴隷が牛馬のような扱いを受けていたわけではありません。当時6千万人はいたとされるローマ帝国の奴隷たちの中には哲学者・教師・医者という役割を持っていた者たちもいたのです。

ペテロは、奴隷が十把一絡げに同じ働き方をしているわけではないことを意識して「しもべたちよ」と語りかけました。このことばは、他の聖書箇所の「奴隷」とは違うことばが使われています。家に仕える者、という意味のことばです。奴隷を身勝手なイメージや先入観で捉えず社会的なひとつの立場として考えるとき、その家の主人の命令に従う、ということがその働きであるとペテロは語るのです。その働きにおいて、主人が良い人か悪い人かは関係がありません。ですからペテロは「横暴な主人に対しても」と念を押しました。ここで大事なことは、ペテロが「従う」というクリスチャンの振る舞いと、従うべき相手がどんな主人なのかという問題を分けて考えているということに気づかなければなりません。私たちは従うことに関して、相手次第だという条件を付けていることが多いのではないでしょうか。クリスチャンの従うという行為は、相手に対する尊敬や好意の違いによって従う側が選り分ける態度ではないのです。ペテロは、従う相手がどんな人かではなく、あなたが従うべきだという態度が求められているのが信仰だと訴えています。

なぜ、主人がどんな人かではなく、「従う」こと自体がそれほど大切なのでしょうか。その理由をペテロは19節で「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、苦しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」と説明しました。ペテロは横暴な主人に従うことは誰に取っても苦しみだと理解しているのです。しかし、私たちが「神の前に」生きている立場であることを主張し、「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう」と確認します。苦しむことなく簡単に従うことができる場合は信仰を働かせなくてもできます。しかし、横暴な主人に従う理不尽な苦しみを忍耐するには、信仰を働かせなければ役割を果たすことができません。それこそが、神のみこころに従う生き方なのだとペテロは語るのです。

私たちの人間関係は、神に与えられたものであり、今いる場所は神が置いてくださっている場所です。理不尽な相手に従う理由は、相手の中にありません。クリスチャンは、理不尽な相手にさえキリストのゆえに「従う」ことのできる者として、主の栄光を現わそうではありませんか。

 

Ⅱ.第2に、私たちクリスチャンがキリストに似た者となるために召されたのは、キリストの十字架によってもたらされた神の恵みと祝福を多くの人たちに受け継いでいくためです。

キリストに似た者となることがどのようなことかは、十字架につかれたキリストの姿抜きには考えることができません。ペテロは「キリストもあなたがたのために」と語り、キリストの十字架が私たちクリスチャンの振る舞いの根拠であることを示します。イエス・キリストは、誰よりも理不尽な苦しみを耐え忍ばれました。何の罪も犯さなかったのに、私たちの罪のために身代わりとなるようにという父なる神の命令に「従う」者であったからです。キリストに似せられていくということは、この十字架の心を持つことです。十字架につかれたキリストの心が与えられることこそ、私たちが地上に生かされている目的なのです。だからペテロは21節で「あなたがたが召されたのは、実にそのためです」と断言します。

キリストの歩みは、父なる神に従い通された歩みです。犯罪者として十字架につけられることは、キリストにとっては理不尽そのものです。22節でペテロは、イエス・キリストと一緒に生活した3年半について「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」と証言しています。そして、「正しくさばかれる方にお任せになりました」(23)。キリストの地上での生涯は、「従う」生涯であったのです。しかし、「お任せになりました」ということばは、誰かを裁判官に渡す、という意味を持っていますので、キリストの「従う」行為には、意志を持って、本当の裁判官である父なる神に結果を委ねたという意味があるのだとペテロは語ります。神の前に生き、神に委ねるという意味で意志的に「従う」このキリストの姿こそが、私たちの「従う」生き方の模範なのです。

ペテロは、キリストの十字架こそが私たちのすべての人間関係において中心にあるものだと強調します。だから、苦しみ・悲しみの中にいるクリスチャンたちに、引き続いてキリストの姿を「・・・自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」と語りました。罪を負われたということばには、背負うという意味ともう一つ祭司がいけにえを祭壇に「ささげる」意味があります。キリストの十字架は、ご自分を父なる神におささげになったという行為でもある、ということです。そして、キリストの「従う」という十字架の大きな目的を「私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」(24,25)と続けています。

だから、私たちは義のために生きて、主を証ししなければなりません。近年、罪や義について語ると、どこか律法的で窮屈に感じる時代と社会になってきており、教会もその影響を受けつつあると感じます。その影響で「キリストに似た者となる」ことを道徳的なイメージとして片付け、罪の贖いのための十字架という福音の中心がぼやけてきているのではないでしょうか。しかし、本当に聖書が語っていることに耳を澄ませなければなりません。神のことばである聖書に「従う」ことがクリスチャンの歩みであるはずです。自分にとって心地よいことばや自分独自の信仰の理屈を作るのではなく、神のことばである聖書に聞いて、主ご自身に従い、神が私たちを召された目的を果たす生き方をしようではありませんか。