「主はアブラムと契約を結んで」 教会標語⑨

「主はアブラムと契約を結んで」 教会標語⑨

2018年10月

創世記15章7-11節

牧師 松元 潤

 

イエスは十字架にかかられる前の夜、弟子たちに対して「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました」と約束なさいました。キリストの十字架によって自分の罪が贖われたことを信じて歩んでいる私たちは、キリストが友と呼んでくださる存在です。そういう意味で、信仰生活は神との友情を育てる歩みでもあると言えるでしょう。

友情が深まるために大事なことは、相手に対する嘘偽りのない思いを持つことです。人が、誰とでも友好に、そして自分自身は決して傷つかない所に立って友を求めても、その関係が深まることはありません。ヴィルヘルム・ペッパーは「誰の友にもなろうとする人間は、誰の友人でもない」と語っています。友情を育てる時には、本心を見抜く選択とある種の犠牲を払う覚悟が必要である、ということでしょう。アブラムもまた、神との関係が見せかけではないことが試練を通して試され、神との友情を深めていくことになります。しかし、神との友情は何よりも、神はどんな時にも私たちを決して裏切ることがないという神の真実に基づいていることを覚えなければなりません。神の契約は、神の真実の証です。アブラムに結んでくださった主の契約が示していることを、ご一緒に考えてみたいと思います。

 

Ⅰ.第1に、私たちの主である神は、契約を結んだ相手がどんなに不誠実であっても、忠実に約束を守り通す方です。

神はアブラムのご自分に対する真実を認めて、「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを導き出した主である(7)」と宣言なさいました。神はアブラムにとっての主人です。そして、アブラムが生まれるずっと以前から選び、導いて来た方なのです。アブラム自身が全く知らず気づかなかった時点から見守り導いて来た主なる神のことばであることが強調されているのです。それに対してアブラムは、「神、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか(8)」と尋ねました。疑っているのではありません。約束を正確に受け取り確信しようとしているのです。

すると主は「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい(9)」と言われました。契約ということばが元々「切り裂く」という意味を持つように、これらの動物が真っ二つに切り裂かれました。半分に切り裂かれた動物を向かい合わせに並べて、まるで互いの関係が対等であるかのように契約が交わされたのです。神が人間と対等であるはずがありません。どこまでも、神がアブラムを尊重し、愛し、友情を結ぶように契約を結んでくださったのです。

ここに至るまで、アブラムは自分の身を守るために嘘もつきました。アブラムの人間性に、神が絶対的な信頼を寄せられるような根拠はなかったのです。いつまた、アブラムが裏切るか分かりません。愚かな過ちを犯すかもしれません。神が人間にご自分と同じ誠実を要求なさったら成立しない契約でした。しかし、神はこの契約によって、アブラムがどんな失敗を犯しても、この後ずっと神ご自身は誠実に約束を守り通すと自ら誓ってくださったのでした。私たちもまた、神の憐れみ、キリストの一方的な謙遜によって、神との友情が与えられていることを覚えたいと思うのです。神に祈り、神のことばを聞けるということ、その一つ一つが神の真実に守られて与えられている恵みなのです。

 

Ⅱ.第2に、神との関係を生きる私たちは、神の約束が果たされる時を待つ歩みをしなければなりません。

神の愛と憐れみによって、神との契約を結んだアブラムでした。しかし、神はアブラムを深い眠りへと導き、苦難の未来を予告なさいます。暗闇の恐怖の中で、神は「あなたは、このことをよく知っておきなさい(13)」とお命じになりました。アブラムが聞かされたことは「あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる」というものです。アブラムの子孫は「寄留者」として歩むのです。彼らが神の約束の地に住むのは「四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである」と語られ、彼らは長い時間待たなければなりませんでした。

なぜ神は、苦難についての預言をアブラムに聞かせなければならなかったのでしょうか。四つの理由が考えられます。⑴子孫の未来が悲劇であったとしても、具体的な歴史上の苦難は自分に子孫が与えられる約束が現実だとできるものであったこと。⑵子孫の繁栄は自分の力ではなく神が与えてくださる未来であること。⑶神との友情を育てる信仰生活には、神との信頼関係が試される試練があること。⑷試練を経て自分の弱さを知り神との友情を深めながら最終的に約束された神の国に帰って行くことを繰り返し刻むのが、地上の人生であること。これらのことをアブラムは神を通して自覚させられたのでした。

友情を築くためには歴史が必要です。苦しみを分かち合ったり、助け合ったり、支えあったりしながら、苦しい暗闇の時も同じ問題を共有できた人とは、深い友情へと導かれるでしょう。私も本当に苦しかった時に理解し支えてくれた人のことは決して忘れません。神との友情を育てる過程も、人格的な関係という意味で似ているのです。試練の中で神が共にいて励ましてくださるということを繰り返し体験していかなければなりません。自分の正しさや信念を一方的に相手に押し付け、願いどおりにならないことを正当化して相手を責めるような幼さは、友情を壊しはしても育てることはできません。人格的な関係の深まりが一朝一夕ではないように、相手のために忍耐し信頼して待つ時間が関係を成熟へと向かわせるのです。アブラムについて聖書は「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していました(ヘブル11:13)」と、証言しています。今がすべてではありません。私たちも苦難や悲しみの中で、神の約束を見失わない歩みをしなければなりません。常に真実である神を信頼して、神との友情を育て行こうではありませんか。