「今はあわれみを受けた者」教会標語⑤
(ペテロの手紙第一 2章9,10節)

ホームレス支援をしておられる牧師奥田知志さんが自著で、一人のホームレス体験者が語っていたことばとして「助けて、と言えた日が助かった日だったよ」ということばを記しておられました。素直に「助けて」と言うことができるのは、大切なことです。私もあることを通して家族から、「助けて」と言うことができるのは自分自身の状態を認めることであり、また人を信じることでもあると教えられました。確かに問題は何も解決していなくても、「助けて」と言えたこと自体が、自分自身もまた他者に支えられなければならない存在であることを覚えさせてくれています。そしてそのことは取りも直さず、神の憐れみによって罪を赦された自分の今があるということを再確認させられることともなりました。

今回ペテロが語っているクリスチャンの立場は、「神のあわれみを受けた者」であるということです。救われるということは、権利でも資格でもありません。本来は滅ぶしかなかった者が、ただ神のあわれみのゆえに救われたのです。しかし、クリスチャンとなって歩み始め、他者に仕え他者を愛し倫理的にも神に喜ばれることをしようと努力を積み重ねていくと、神のあわれみを受けて出発した自分であったことが自分の中で薄らいでいくのではないでしょうか。そのような信仰生活の現実を振り返り、改めて「今はあわれみを受けた者」としての私たちの立場について聖書から確認させていただきたいと思います。

 

Ⅰ.第1に、「今はあわれみを受けた者」としてのクリスチャンの立場は、私たちが生かされ救われた理由は私たち自身の中にはない、ということを示しています。

この手紙が書かれた時代を生きているユダヤ人たちにとってキリスト教は新興宗教に思えた時代です。ですからペテロは、ユダヤ民族が唯一の生ける真の神として崇めてきた存在がキリストの十字架と復活をもたらしたことを理解させるために、旧約聖書と関連付けながらクリスチャンの立場を説明していきます。それが「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」という4つの立場です。さらにそのような4つの立場に共通している目的を「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」と明記しています。

そこで10節で、なぜ私たちはクリスチャンになることができたのかという理由についてもペテロは旧約聖書から説明するのです。この手紙の2章10節はホセア書の引用です。ホセアにはゴメルという妻がいて3人の子供が与えられます。しかし、ゴメルは夫ホセアを裏切って何度も他の男の元に走った不貞の妻でした。神は3人の子供たちの名前に神とイスラエルの関係を現されて、イスラエルの民が偶像崇拝を繰り返していることに警告を送ります。しかし、イスラエルの民がそのような赦し難い状態にあっても、神はホセアにゴメルとの関係を受け入れるように命じ、その関係の中にご自分の民に対する愛を現されたのでした。そこには愛される資格のない民の姿と、ただ憐れみと忍耐によって愛そうとされる民の姿が映し出されています。罪を犯す民に厳しい警告を送りつつ、同時に回復への道も備えておられる神がお語りになったことばが『「あなたがたはわたしの民ではない」と言われた所で、「あなたがたは生ける神の子らだ」と言われるようになる』(ホセア1:10)という宣言です。

このホセア書に流れている神の思いが、ペテロのメッセージとしてあるのです。罪は罪として裁かれなければなりません。しかし、罪が裁かれる時、神はすでに裁かれた者の悔い改め後の回復を用意しておられる方なのです。罪を赦す前提で、罪を裁こうとしておられる、それが神のあわれみです。ホセアの妻ゴメルも何度も夫を裏切り、夫に対して謝ろうとすらしません。神に対して、平気で偶像崇拝を繰り返す民の姿そのものです。神はその民を「あなたがたはわたしの民ではない」とおっしゃったのですから、罪をあやふやにして赦そうとなさっているのではありません。罪が不問にされることはありません。罪には悔い改めが求められなければなりません。しかし、裁かれた民に対して回復も同時に約束なさっているのが神なのだという重要なメッセージがここにあります。私たちは霊的にこのゴメルのようでありイスラエルの民のような存在でした。ですから、神は私たちにも罪の悔い改めを求めておられます。しかしそれは、神がすでにあわれみによって私たちを受け入れる用意があるからこその厳しい警告であることを覚えなければなりません。私たちは、ただ自分の罪を告白し神の回復の約束を信じました。そこに救いがあります。自分の生き方によってではなく、神御自身のあわれみによって赦され生かされ救われた者であることを謙遜に覚えたいと思います。

 

Ⅱ.第2に、「今はあわれみを受けた者」である私たちクリスチャンの立場は、あわれみを受けさせてくださったキリスト・イエスにおいて一つの歩みをする者である、ということです。

私たちが受けた神のあわれみは、私たちが教会として共に歩んで行くことと繋がっています。ペテロは2章10節で、私たちの救いの根拠は私たち人間の中には全くないことを確認しました。このことばが引用されていたホセアの時代には明らかになりませんでしたが、その後の時間の経過とともに神のご計画が具体的に明らかになっていきます。ホセアを通して語られた民に対する神からの回復の約束は、段階的に(1)バビロンが捕囚から故郷エルサレムに帰ってくること、(2)メシアとしてイエスが誕生すること、(3)聖霊が降り教会が形成されること、に現されていくからです。旧約時代の神の群れという共同体はユダヤ人たちだけでした。しかし、人間の努力や宗教行為という資格において彼らが失敗した結果、神の一方的なあわれみによる新しい神の民が誕生したのです。ユダヤ人も異邦人もなく、血筋も育ちも道徳的な行為も関係なく、神があわれみを持ってキリストの十字架によって自分の罪が赦されたことを告白しキリストを主と崇めた者を救ってくださったからです。その新しい神の民がクリスチャンです。私たちが今あるのは、このキリストの十字架につながっているというたった一つの理由です。それならば、神の民の歩みは当然この方において一つの歩みでなければなりません。

ペテロは、キリスト・イエスにあって教会が一つであるということも私たちに語りかけているのです。そのために大事なことが、私たち一人一人が以前にはどのような者であったのかということです。かつては、私たちは神の民ではなく、神のあわれみも受けない者でした。神に造られたにもかかわらず、神のことばを歪め神の思いを無視し神に従わなかったからです。造られて存在した者が造った方の意図を無視し造られた目的を行わないなら、それは存在する意味がありません。滅んで当然でしょう。すべての人間は神によって造られて初めて存在しています。それが聖書の語っていることです。ですから聖書に立ち返れば、私たちが生きていることは当然の権利ではありません。願い通りの幸せも当たり前の権利ではありません。それなのに、神は私たちを生かし、導き、守り、祝福しようとなさっておられるのです。神が私たちをあわれんでくださっているからです。それをペテロは「今は神の民であり・・・今はあわれみを受けた者です」と語りました。救いは資格ではありません。私たちは神の前で自分の権利を主張できるような存在ではないのです。イスラエルの民は、その点を勘違いしていました。

パウロは「ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の王であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるのです」(ローマ10:12)と、神の恵みが主とのつながりの中で現されることを語っています。ホセアの最初の子につけられた名前はイズレエルでした。これは、ホセア書の中では戦いの場所を示し、破壊を意味していますが、元来の原語は「神は種をまく」という意味を持つことばから来ています。種をまくという祝福されるべきわざを、人間は自らの罪によっては壊し散らすことに変えてしまったのです。私たちは神の祝福を消し、神の恵みを壊すような自己中心な歩みをしていないでしょうか。私たち人間の中にある罪を働かせるのではなく、キリストの十字架に現された神のあわれみにすがって歩みましょう。神のあわれみを受けたことが私たちの出発であることを思い出しましょう。それぞれが自分の正しさを主張して、関係を壊し散らすことを神は願っておられません。人間の視点は自己中心で狭いのです。キリストの十字架に立ち返って、神のあわれみの中で一つの歩みができる私たちとなりましょう。神のあわれみこそが私たちクリスチャンの土台であり、原点なのです。一人一人が「あの人この人ではなく、主よ、私を憐れんでください」と祈る歩みをさせていただきたいものです。

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