「愛する者たちよ」⑥

(ペテロの手紙第一 2章11,12節  )

 

C.S.ルイスは信仰生活を深めていくために、「見せかけ」という問題をどのように理解するかが大事だと語っています。ルイスによれば、見せかけは全て悪いものというわけではなく、良い見せかけと悪い見せかけがあるというのです。例えば、良い見せかけの代表的な例が、子供達のごっこ遊びです。大人のふりをして、楽しみながら、本当の大人になるための助けとなっていく遊びです。そのようにクリスチャンもまた、成長するために良い見せかけを演じる過程が必要であると語ります。到底愛せない相手に、愛しているなら必ずするであろうことをする、・・・するといつの間にか本当に愛する者へと変えられている、・・・そのように良い成長を遂げていく見せかけは、信仰生活の訓練とも言うことができると表現するのです。そして、ルイスは大胆に「キリストのふりをしよう」と語りかけています。

ルイスのメッセージは、私たちの信仰生活にも当てはめて考えてみるべきでしょう。クリスチャンは、自分の感情のまま言いたいことを言い したいことをするというのでは、いつまでも信仰の子供のままです。そこに信仰の成長はありません。キリストのふりをするという良い見せかけを積み重ねて自らを自制することは、偽善や嘘とは全く違う、真実にキリストに似た者へと変えられていく道となるのです。ペテロは、クリスチャンが何者であるのかを意識することで、クリスチャンの霊的立場に自らを合わせて生きることを求めています。私たちは自分がどんな者であると意識することが大事だというのでしょうか。

 

Ⅰ.第1に、ペテロが「愛する者たち」と呼びかけているクリスチャンは、だれよりも神に愛されている者たちであるということです。

ローマ帝国の厳しい迫害の中を生きるクリスチャンたちに最も必要な励ましは、クリスチャンが何者であるか、というメッセージでした。手紙の書かれた時代と社会状況を考えるなら、この手紙は迫り来る死の瀬戸際にある人に一番必要な励ましが何かをペテロが考え抜いて書き送った手紙であると言えます。書き手のペテロに私たちを重ね、最大の試練の中にいる友人に手紙を書くとするなら、慎重にことばを選び相手の立場を思いやり、相手の存在価値を訴えようとするのは自然です。ペテロはクリスチャンたちが直面している試練を想像して、彼らの具体的な生活のための勧めを始める前に、「愛する者たちよ」と呼びかけました。ペテロがこの手紙を受け取るクリスチャンたちを愛しているという意味があるのはもちろんですが、このことばの直訳は「神に愛されている者たち」となります。ペテロにとっても愛する人たちですが、あなたがたは何よりも神に愛されている人たちであると語っているのです。この手紙の4章12節から14節でも同じように「愛する者たち」という呼びかけは繰り返され、このことばはペテロの手紙の中で重要な役割を持っていることがわかります。

ペテロは厳しい試練の中にいるクリスチャンたちに、問題が解決するというような安易な励ましは送っていません。厳しい試練の中にいる人々に「愛する者たち」と語りかけます。問題の中でどう生きるか、試練とともにどう歩むか、そのために最も大切なことばを送っています。神に愛されている者である、という自覚が私たちにとっても、問題とともに歩む力となるのです。

 

Ⅱ.第2に、ペテロが「愛する者たち」と呼びかけているクリスチャンは、試練の中でも誘惑を退けて罪を犯さないように努める者でなければならない、ということです。

神にどんなに愛されているかを思い起こさせたのち、ペテロは問題の中で大事な信仰の態度を語り始めます。それが「旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」という命令です。この命令には、二つのメッセージがあります。

ⅰ)一つには、今通らされている試練の場所である地上は、あなたがたにとって一時的な旅先にすぎないことを心に留めて向き合うように、ということです。

ⅱ)二つ目には、誘惑に陥って罪を犯さないように気をつけなさい、ということです。この場合の試練において最大の誘惑とは、信仰を捨てることと敵を憎むことであったと考えられます。試練には、誘惑が必ず付きまといます。試練によって誘惑の形も違うでしょう。でもどんな誘惑であってもクリスチャンは自分自身が罪を犯さないように歩まなければなりません。そのためにパウロは「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです」(ガラテヤ5:16)と語っています。

厳しい迫害の中に置かれたローマ帝国のクリスチャンたちにとって、苦しみから逃げるためにクリスチャンであることをやめたいと思う誘惑と、理不尽な迫害を繰り返すローマ帝国の関係者を敵として憎む誘惑は常にあったでしょう。しかし、ペテロが「肉の欲を遠ざけなさい」と命じたことばは、そのような思いから離れ続けなさい、という意味でもあります。私たちは自分が神からどれほど愛されている者であるかを心に刻み、地上においては寄留者である自分の本当の国籍を思い出さなければなりません。そして、神が悲しまれる怒りや憎しみを育てる誘惑、自己憐憫に陥る誘惑から自分を引き離して歩みたいと思うのです。

 

Ⅲ.第3に、ペテロが「愛する者たち」と呼びかけているクリスチャンには、自分に敵対する者たちにさえ神を証しする力が与えられていることを信じなければなりません。

ペテロは厳しい試練の中を生きるクリスチャンたちに、今は傷ついて力尽きているだろうからゆっくり休みなさい、とは言いません。むしろ積極的に「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」(12)と命じています。明日、コロセウムでライオンに食い殺される見世物にされるかもしれないクリスチャンが、皇帝ネロや臣下の者たちがあざ笑う前で立派に振る舞うように命じられているのです。なんと厳しいことばでしょう。「りっぱに」ということばは、感覚的に堂々としているとか、毅然としているという意味ではありません。クリスチャンを見守る人々にとって、心地よい喜び、その人たちが素晴らしいなあという感動を与える態度、ということです。また、「ふるまいなさい」というのは、模範となるような存在に似せた言動、という意味です。まさに、冒頭のルイスの「良い見せかけ」にあたる態度です。自分に敵対する存在に対して、キリストのふりをする、キリストの真似をするのです。ペテロは「そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります」と語っています。「おとずれ」とは、『神に逆らっている者が恵みの中に引き入れられる日』と理解するのがふさわしいでしょう。パウロは、敵対する者の悔い改めを期待し続けるクリスチャンの態度をどこまでも求めています。クリスチャンは最後の審判と神の国の完成を知っている者だからです。

ローマ帝国の迫害を生きたクリスチャンたちにとって、地上での信仰生活は最初から最後まで苦しいものだったかもしれません。しかし、薄暗い地下で礼拝をささげ、それでも神を賛美し敵のために祈り続けたクリスチャンたちが現実にいたことを思わされます。ペテロは同じ2章で「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」と、苦難を生きるすべてのクリスチャンに向かってキリストの姿を示しました。このキリストに倣い、キリストに似た者となることができるように祈りましょう。ルイスが語るように、私たちにはすでに「神があなたを特別に愛しておられる」という仮面が与えられています。神に愛されるにふさわしい仮面と今の私たちの現実の姿は遠く隔たっているように思うかもしれません。しかし、このキリストの仮面をつけて、仮面に合わせた自分を毎日生きるなら、御霊によっていつの間にか真実の私たちもまたキリストに近づけられているのではないでしょうか。日々、キリストがお選びになった生き方を選ぶ歩みをしたいと思います。