「王である祭司」教会標語②
(ペテロの手紙第一 2章9,10節)

坂岡隆司さんが記した「一粒のたねから」という著書の中で、「『わかってくれない、わかってくれなかった』ということばを耳にするようになったけれども、これは周囲の人を責めることばだ。・・・・・施設などで『あのワーカーはよくわかってくれる』と言われた時が一番危険で、実は当事者の喜びそうなことばを選んで返し、面倒なことを避けようとしていることが多かったりする・・・そもそも支援とは、相手のことがわからないことを前提に、わからないもどかしさにじっと耐えるところから始まるのではないか」と語っておられました。

私たちは、自分の感情に賛意を求めて思い通りの反応が返ってこないと「わかってくれない」と表現する自己中心な人間関係の築き方をしていないでしょうか。人間は一人一人が唯一無二の存在として、神によって造られました。お互いに違う人間である以上感性も考え方も違って当然で、本来は相手をわかるはずもありません。だからこそ、わからないもどかしさを忍耐し、イエス・キリストの十字架という一点においてつながっている私たち教会の交わりであることを覚えなければなりません。クリスチャンは「わかってくれない」と訴える者ではなく、また、自分が相手のすべてをわかってあげようとする者でもありません。神と人の間に立って「執り成す者」とされているのです。すべてを理解しておられる神の前に相手を連れてくることが私たちの使命です。ペテロは私たち信仰者を「王である祭司」と表現しました。祭司として生かされているクリスチャンの歩みについて考えたいと思います。

 

Ⅰ.第1に、「王である祭司」とされている私たちは、神に直接祈り、直接礼拝をささげる恵みにあずかっている者である、ということを覚えなければなりません。

祭司は、神と人の間に立って取り次ぐ者、執り成す者です。祭司の務めには、聖所の中での細やかな儀式の遂行、礼拝の合図であるラッパを吹き鳴らして全会衆を聖所に集めること、集められた民を祝福すること、ツァラアトのきよめを宣言すること、律法を教える教育全般の任務などがあります。

その中でも最も重要な任務は、聖所の中で動物のいけにえ、穀物のささげものを献げることでした。これによってイスラエル全体の罪が赦されるとともに、イスラエル民族は神に聖別された特別な民族であるという確認がなされたのでした。イスラエルの民は、礼拝の聖所がある幕屋を中心にして、放射線状に外側に向かって円を描くように部族別に宿営のテントを張ります。

部族の宿営のテントが、円の中心にある聖所の幕屋を取り囲むように配置されているのです。中心の聖所がある幕屋の出入り口に最も近い所に宿営を張ることが許されていたのは、預言者モーセと祭司たちです。それが、律法において定められた配置でした。

そのようなイスラエル社会において、祭司は人々にとって近づきがたい存在でした。神に近づくことが許されている祭司と人々は区別されて、聖所の中の境目によって区切られ、ほとんどの人々は聖所にかかる垂れ幕によって遠ざけられていたからです。今何が行われているのかを簡単に見ることができない距離から、張り詰めた静けさの中でいけにえが献げられる儀式を見守ります。そして人々は、白い煙が高々と上がったときに、やっといけにえが献げられたことを知るのです。しかし、いけにえは繰り返し献げられ続け、人間と神の距離は依然として隔たったままでした。人間が根本的に内側から変えられたわけではないからです。

その、神と人間の間の隔ての壁を取り去ったのが、祭司の中の大祭司と言われたイエス・キリストです。十字架の場面では、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた出来事が記されています。裂けた幕は、旧約のいけにえが献げられる儀式の中で祭司たちの姿を人々の目から遮る、あの聖所にかかる垂れ幕のことです。これは神殿建設の際にも、人々が神との距離を自覚する聖所の前にかかる垂れ幕として存在し続けました。だから、ヘブル書ではキリストの十字架によって救われることを「ご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださった」(ヘブル10:20)と表現されています。私たちは今、恵みによって大胆に神に近づくことができるようになったのです。直接神に祈り、賛美し、礼拝することは、本来罪人には許されないはずの行為です。あの旧約時代に一握りの人たちの命がけの特権であった祭司という立場が、今私たちみんなに平等に与えられているという驚くべき恵みを心に刻みたいと思うのです。

 

Ⅱ.第2に、「王である祭司」とされた私たちは、神に受け入れられる霊のいけにえを献げる者でなければなりません。

旧約時代の祭司たちは、民が持ってきたいけにえが律法にかなっているかどうか注意深くチェックしています。ですから、キリストによって新しく生まれた私たちは「神に喜ばれる霊のいけにえ」(2:5)を吟味して献げなければなりません。「霊のいけにえ」とは、新約聖書では礼拝を通して自分自身を全て神に献げる「献身」を意味しています。パウロは「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)と勧めました。私たち一人一人が祭司として礼拝をささげるということは、自分自身のからだと生活のすべてを神のみこころに従わせます、という告白と決心がそこになければなりません。それは、神から真実だと認められる、私たちの心からのものでなければなりません。それが5節では「聖なる祭司」とペテロが表現しているように、王である祭司である私たちのささげるべき霊のいけにえに求められている「聖さ」です。

詩篇51篇でダビデは、「砕かれた悔いた心」と表現しました。

さらにヘブル書では「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです」(ヘブル13:15,16)と勧められており、心からの賛美や他者への真実な思いやりもまた聖いささげ物である「霊のいけにえ」であることがわかります。

今日、すべてのクリスチャンが「大胆に恵みの御座に近づく」(ヘブル4:16)ことができます。でもその意味は、私たちが祭司とされている、ということなのです。旧約時代、祭司たちだけは許されて聖所である幕屋の入り口に立ちました。そこで受け取ったいけにえを携え聖所の中に入って行って、人々の罪を執り成すための儀式を行いました。今は、あなたがた一人一人がその祭司である、とペテロは語るのです。今は、私たちみんなが神の聖所の入り口に立ち、人々の罪を神に執り成す存在なのです。だからペテロは私たちが王である祭司とされている目的を「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたに宣べ伝えるためなのです」と語りました。キリストの福音を宣べ伝える者、キリストを証しする者、それが王である祭司とされた私たちです。

私たちにとって礼拝は恵みでしょうか。信仰は恵みでしょうか。与えられている恵みに気付かないなら、他者と神の間に立って執り成す者となることはできません。自分をわかってくれない、ではなく、すでに神に全てを理解されている者として、他者のためにキリストの十字架の愛に立って執り成す者となろうではありませんか。キリストの福音を宣べ伝えることは、やみの中で罪に苦しむ人々を神に執り成す祭司としての働きそのものなのですから。

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