「真実に生きる」 教会標語④

「真実に生きる」教会標語④    創世記12章10-20節 牧師 松元 潤

「はじまりは愛着から」という本を読んでいたときに、「子どもの年齢がどんなに小さく幼くてもお母さんは自分の気持ちを正直に伝える・・・母親自身の負い目になるような事実まで包み隠さず話してくれたのだという思いや経験は、大きくなればなるほど母親への信頼感が増すことにつながる」ということばが心に留まりました。人間が深い信頼関係を築いていくために、愛に基づいた「真実」は大切なことなのだと思わされたからです。
 神は私たちに対して常に真実です。神は完全で罪のない方なので、人間の親のように自己中心ではありません。私たちがどんなに失敗を繰り返し裏切っても、神は忍耐と憐れみをもって真実にご自分の約束を守ってくださるのです。アブラハムの人生は、そのような神の御真実によって導かれました。そして、神の子とされた私たちも神の御性質に似た者として「真実に生きる」ようにと、聖書は私たちを励ますのです。

Ⅰ.第1に、私たちの罪は、神の前での本当の真実を歪める習性があることを謙遜に覚えておかなければなりません。
 アブラムは75歳で新しい環境に向かって出発しました。故郷ハランを出発し、カナン(今のパレスチナ)に入り、その地域の中心地であるシェケムの場所に導かれました。そしてさらに「ネゲブの方へと旅を続け」たのです。しかし神の約束の地は、アブラムにとって環境の良い所とは言えませんでした。偶像崇拝がありました。またネゲブでは、厳しい飢饉が起こりました。そのため、「アブラムは、エジプトにしばらく滞在するために下って行った」のです。ネゲブから約300kmの道のりを旅してエジプトに近づいたとき、アブラムはサライに向かって「聞いてほしい。私には、あなたが見目麗しい女だということがよく分かっている。エジプト人があなたを見るようになると、『この女は彼の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくだろう」とエジプトでの生活の予測を伝えました。そして、そのために事実の半分を隠す「私の妹だと言ってほしい」という巧妙な嘘をつくことを計画するのでした。確かに、彼らは母親が違う兄妹であり、この当時の結婚にはそのような関係が習慣としてありました。アブラムは自己中心に「そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで生き延びられるだろう」とサライに語りかけます。夫婦の関係まで壊しかねない発言です。

 半分を隠した嘘が意味することは、アブラムの自己中心という罪です。確かに、表面上は、嘘をついていないと逃げる事ができます。しかし、隠していた「夫婦」という事実こそ、相手に知らせなければならない大切な情報でした。聖書は、自分に不利にならないように「沈黙する」という嘘があることを示します。エジプトに来る前には事あるごとに主の前に祭壇を築き礼拝を献げていたアブラムでしたが、いつの間にか人間的な知恵を弄して自分の生活を守る事を第一にしてしまっていたのです。礼拝生活が失われていたからです。私たちはトラブルが起きないようにと、自分を守る事を第一にしがちです。しかし、十戒には「あなたの隣人に対して偽りの証言をしてはならない」とあります。神は、私たちが真実に生きるようにと励ますのです。真実に生きる事こそ、神の祝福を選び取る道です。

Ⅱ.第2に、神は、私たちが不真実で失敗を犯したとしても、神ご自身の真実によって私たちを真実に生きる者へと造り変えてくださる方であり、そのためにチャンスを与え続けてくださる方である、ということです。
 アブラムがエジプトの地に入った時、サライはファラオの宮廷に召し入れられることになりました。アブラムの予想通りでした。「アブラムにとって、物事は彼女のゆえにうまく運んだ」のです。順調に事が運んだために、アブラムは自分の問題に気づきませんでした。間違いや失敗は必ず神が止めてくださる、というのは、私たちの思い込みです。親が子が失敗しないようにといちいち事前に止めないのと同じで、神は、アブラムが自分で選び取った自分の過ちにどう向き合うかを問われました。そして同時に「主はアブラムの妻サライのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれた」のです。これは一見、アブラムが嘘をついたのですから、ファラオにとって理不尽な出来事に見えます。
 神は何を優先なさったのでしょうか。ファラオとサライが男女の関係を持つと、サライはファラオのもとに残されます。アブラムとサライが夫婦の関係に戻る事はありません。神は、二人を通してアブラム一族が祝福されていくという、ご自分の約束を守る最善の道をお考えになったのです。エジプトでの立場を考えるなら、アブラムに災いが降っても事態は変わりません。ファラオが自分の身に起こった災いによって、その災いの原因を取り除こうとしなければなりませんでした。それが、サライが宮廷から解放される唯一の道だったのです。ファラオは「あなたは私に何ということをしたのか」と激しくアブラムの嘘を責めましたが、アブラムの背後におられる方が災いを起こしたことを理解したので「さあ今、あなたの妻を連れて、立ち去るがよい」と早々に立ち去らせ、彼らを丁重に見送りました。
 今回の出来事の中で、アブラムが信仰を働かせた、という記録はありません。自分の犯した過ちに気づき罪を悔い改めた、という表現もありません。しかし、神はアブラムに対するご自分の約束を守るために最善に働いてくださったのです。アブラムが行いを改めたからではありません。ファラオが神の力を災いという形で体験し恐れたからこそ、嘘から始まったエジプトでの生活でありながら、アブラムは得たすべての財産を持って国外へ送り出されたのでした。この出来事の中でアブラムが自分の過ちをどう理解したか知る事はできませんが、次の13章に入ってアブラムが主の御名を呼び求める生活に立ち返っていますから、アブラムなりの悔い改めがあったと想像できます。ただ、後になって同じ過ちを繰り返すアブラムの姿を考えると、過ちを繰り返しながら、罪認識が深まり信仰が成長していくのが人間の歩みであることを教えられます。ただ聖書は、神がアブラムの状態に拘らずご自分の約束を守り続ける真実なお方であることを示すのです。
 私たちも自分のことばや振る舞い方が、神の祝福を受ける理由ではないことを知らなければなりません。私たちの姿は不信仰や矛盾に満ちています。しかし、愛とあわれみに満ちた神は、私たちに対して常に真実なのです。十字架の御子が神の絶対的で真実な愛を現しておられます。神は私たちを見放す事は決してありません。神の御真実に守られて、自らの弱さに気づいたなら悔い改め、私たちもまた真実に生きる歩みで神に応える者となりたいものです。