「祝福をうけつぐために」⑪

「祝福をうけつぐために」

2017年12月
教会標語⑪        ペテロの手紙第一 3章8-12節
牧師 松元 潤
『大草原の小さな家』の作者のエッセイの中に、「誤解するよりも理解することを」というタイトルの話があります。一人の婦人について広がった悪い噂が、実は大きな誤解と思い込みによって作り上げられた話であった、という私たちの現実にもありがちな話です。私たちは自分の言動に注意深くなければならないことはもちろんですが、他の人の言葉や振る舞いをどのように受け取るかという、自分の受け取り方についても考えなければならないのではないでしょうか。人間である以上誰にでも失敗や弱さはあるにも拘わらず自分のことは棚に上げ相手に対する邪推を重ねるか、あるいは相手の立場に立って愛のある想像力を働かせるかでは、私たちの人間関係はまるで違ったものになります。私たちがそれぞれに唯一無二の存在として造られている以上、感性も考え方も違っていて当たり前なのですから、人間的な努力や頑張りだけでは良い関係を築くことはできません。かえって私たちの罪によって、頑張り過ぎたことで自分に賛同してくれない相手を否定したり、関係を壊す方向に向かうことになったりするのです。
 だからこそ、人間関係に信仰を働かせることはクリスチャンの大きな「証し」となります。ペテロは、「神さまの祝福を受け継ぐために」私たちがどのような人間関係を生きるべきかを語っています。みことばに照らして自分自身の姿を振り返ってみましょう。

Ⅰ.第1に、私たちがともに神の「祝福を受け継ぐために」は、互いに集まって交わることをやめてはならない、ということです。
 ペテロは、従いづらい相手に従ってこそクリスチャンの証しになるのだというメッセージを語ってきました。信仰がなければできないことだからです。そしてすべての人間関係に当てはまるクリスチャンの生き方の原則として、8節で「最後に申します」と宣言し「あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい」と5つのことを命じたのでした。この5つのことばはすべて形容詞が使われ、クリスチャンとはどのような人のことなのかを言い表しています。すなわち、クリスチャンとは交わりにおいて心を一つにする人であり、相手の弱さに同情する人であり、兄弟愛を示す人であり、憐れみ深い人であり、謙遜な人だというのです。この5つのことばを順番に左から右へと一つの山を描くようにイメージしてください。頂上は「兄弟愛」です。クリスチャンの交わりにおいて、兄弟愛は要(かなめ)なのです。ヘブル人への手紙では「兄弟愛をいつも持っていなさい」(13:1)と命じられています。そしてその同じ著者が、兄弟愛のある交わりのために大事なこととして「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって互いに励まし合い」(10:25)と語りかけています。集まりそのものが葛藤になるような状況の中でも集まることをやめない、それが兄弟愛を持っている交わりなのです。独りよがりの信仰の歩みとならないように自らの歩みを点検してみましょう。
 さらに、兄弟愛ということばを山頂とすると、左右対称の麓は左は「心を一つにし」であり右は「謙遜である」ということばになります。そして、「同情し合い」と「憐れみ深く」が向き合っていることになります。この左右対称のことばは、それぞれに同じような意味を持っているということでしょう。ですから、心を一つにするクリスチャンの交わりのために、謙遜な態度が必要不可欠だということになります。他者のことばに耳を傾けない人は、神のことばにも耳を傾けることができません。自分の意見を押し通そうとする姿勢は教会の交わりを壊します。神の祝福を受け継ぐ交わりが、教会の交わりです。互いを諦めることなく、謙遜と憐れみのある兄弟愛を持って、いっしょに本当の祝福をもたらす神のことばに耳を傾ける交わりをしましょう。

Ⅱ.第2に、私たちが神の「祝福を受け継ぐために」は、神を恐れて生きることが求められています。
 兄弟愛を持つ交わりに続いて、ペテロは祝福を受ける人の具体的な生き方として、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい」(9)と語りました。イエスもまた「あなたの敵を愛しなさい」と語り、パウロも「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい」と語っているように、悪の問題をどのように考えるかにおいて信仰の大切な態度が現わされるのです。そこでペテロは、ダビデの身に起こった理不尽な試練を思い出して詩篇34篇のことばを引用しています。この詩篇のタイトルには「ダビデがアビメレクの前で気が違ったかのように振る舞い、彼に追われて去った時」と記されているように、ダビデの命がけの逃亡劇の始まりです。サウル王との関係はどんなに最善を尽くしても好転しませんでした。憎まれ命を狙われ続けるダビデですがこの詩篇の中で「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう」と、どんなに大きな問題の中でも最も大事なことは主を恐れることであり、主と共に生きることこそ神の祝福を受け継ぐ道なのだと告白しているのです。サウルは自分を正当化し自分を守るために、繰り返しダビデを攻撃しました。しかし、ダビデは主と共に生きることを選んだのです。結果として、ダビデは神の祝福を受けました。
 ペテロは主を恐れ神の祝福を受け取る信仰者の歩みには「平和」があるはずだと語るのです。その平和は、問題が起こらない静けさを意味しているのではありません。人間は罪人ですから、お互いが自分の意見を主張すれば争いが起こります。だから、平和は波風を立てずに沈黙している状態とも違います。だからといって、肉の熱心で自らの言いたい権利だけを声高に主張することでもないことは当然です。意見や考え方が違う時、自分を押し通したり相手を非難する方向に向かうのではなく、そこで共に祈り主のことばに聞き直して神の前で信仰からくる謙遜を発揮しなければなりません。イエスは平和が、罪人がありのままの状態で持ち合わせているものではないことを「平和を作り出す者は幸いです」とおっしゃいました。平和は、信仰を働かせる者たちが主のことばに一緒に聞き主の力を一緒に求める交わりの中で「作り出される」ものだからです。
 主を本当に求める者は、主を恐れ、主と共に平和を作り出そうとします。罪人のありのままの状態では、結局自己中心に悪い想像力を働かせて、出会った関係を壊しては次の関係に移っていくだけの状態になります。良い想像力は、知性を働かせ心を尽くし、相手のために愛と知恵を働かさなければ発揮できません。神に聞く良い想像力を働かせた人には、積み重ねてきた関係が祝福として幾つも残されていくことになるのです。お互いに主にある関係を建て上げる力を持ちたいと思います。あなたのもとには、これまでの関係がきちんと積み重ねられ残されているでしょうか。神の祝福を受け継ぐ歩みをしようではありませんか。