「神の御前に価値あるもの」(前編) 教会標語⑨

「神の御前に価値あるもの」(前編)

2017年10月
教会標語⑨        ペテロの手紙第一 3章1-7節
牧師 松元 潤

4年前に天に召された母の遺品を片づけていたら、60年以上前に妻の父が母に宛てて結婚について綴った手紙が出てきました。「・・・結婚とは信頼の上に成立するものだと存じます。お互いを信じることです。・・・しかし、信じることも神様の約束に支えられなければできないと考えます・・・」と記されていました。いつの時代も、結婚における互いの関係には信仰が現われます。
ペテロはクリスチャンの証として「従う」という生き方をとても大事なこととして語ってきましたが、その理由を地上のすべての権威が神から生じているものであるからと説明しています。従うことと信じることは、密接な関係があるのです。そしてペテロは今日のところで結婚関係における「従うこと」もまた、神を信じる者の信仰の現れであることを語ります。その中で今回は、妻に対する勧めについて考えてみましょう。

Ⅰ.第1に、私たちは神の御前に価値あるものとして、神のみこころを現わすという目的において「従う」生き方が求められています。
これまでペテロは、主人と奴隷の関係を取り上げ、神から憐れみを受けた者として「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」と命じてきました。主人がどんな人かを問題とするのではなく、主のゆえに信仰者は地上の秩序の中で従う生き方をするように、というメッセージでした。キリストご自身も少年時代に既に律法学者を感嘆させるほどに優れた知恵を持ちながら、地上の不完全な父母に従って生活なさり、ついには十字架の死という父なる神の命令にまで従われました。その流れの中で、ペテロが夫婦の関係について語っていることを心にとめなければなりません。ペテロは夫婦の関係において「従う」生き方を勧めるときにも、相手が従うことにふさわしいか否かは全く問題とせず、「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい」と命じました。結婚もまた神の定めた秩序であったからです。
従う、ということば自体に抵抗のある人たちがいますが、先入観を持たず信仰によって考えてみなければなりません。これは決して自分を押し殺すようにという命令ではありません。ここでペテロが語
っているのは、私たちの証の力がどこにあるのかということです。私たちが神を証しようとするとき、ことばの力より、行いの力が圧倒的に説得力をもたらすからです。だからペテロは「たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって・・・」と勧めています。無言のふるまいとは、直訳では「ことばなしのふるまい」ということです。聖書の時代、実は女性たちは強く、教会の分裂を引き起こしたり騒がしい礼拝を生み出していたことがパウロの手紙には記されています。だから、神がお造りになった秩序について考えさせる必要が教会の現実としてもあったのです。感情のままの言い争いや自己主張は、信仰者の態度ではありません。無言のふるまいとは、むしろ信仰を働かせ主の知恵と愛を持っていなければ現せない態度です。ですから、自分をしっかりと持っていながら、主の知恵と愛に基づいて振る舞う妻の姿は、自分の感情や自我のままに言いたいことを言う女性たちよりも、神を伝える証となりました。横暴な夫にさえ無言のふるまいで仕える妻たちは、どんな雄弁なメッセージにも勝る力を持っているとペテロは励ますのです。
私たちが目指すのは議論に勝つことではありません。群れの中で大きな発言力を持つことでもありません。まして、夫婦の関係であれば、相手を支配することでもないでしょう。クリスチャンが人間関係の中で目指すべきことは、相手を神のものとすることです。だからこそ、ペテロは「従う」ことを大事にするように勧めるのです。向き合う人が神のものとなることを目指して生きるとき、主の愛に立てば相手のために仕える「従う」ふるまいが優先されるのではないでしょうか。神のみこころを現わす生き方として自分がどう振る舞うべきかよく考えてみたいと思います。

Ⅱ.第2に、神の御前に価値あるものとしての生き方とは、弱さがないという意味ではなく、失敗や愚かさを神に赦していただいているという自覚を持って「神に望みを置いた」生き方のことです。
ペテロは夫に対する妻の生き方を「神を恐れかしこむ清い生き方」と表現しています。これを直訳すると「恐れの中にある清い生き方」となりますから、3、4節にある「心の中の隠れた人がらを飾りに」できる生き方は、神を神として恐れる心の中にある、ということです。神に対する恐れがなければ、清い生き方は不可能だと言い換えることもできるでしょう。神を恐れる人は、神を見失うことなく生きているのですから、神を目の前にして罪を犯すことはできません。罪を犯さないように注意深く生きることを「神を恐れかしこむ清い生き方」と表現し、それをさらに5節で「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです」と説明しています。結局、そのような妻の振る舞いは、やはり「従う」態度として現わされていくことになるのです。
そしてペテロは神に望みを置いた敬虔な婦人たちの代表として6節の最後でアブラハムの妻であったサラについて語っています。「敬虔な婦人たち」とは「聖なる婦人たち」という意味です。聖なる、とは神のものとして取り分けられる、ということですから、「敬虔な」ということばが道徳的な振る舞いに関して語られているというより、何よりも神に従う婦人たちであったと語っているのです。では、サラは立派な女性だったのでしょうか。創世記を読むと夫の嘘を見逃し、神の約束を笑った人です。イサクが生まれるまで神の約束を信じて待つことができず、人間的な策略を巡らし、女奴隷ハガルを夫に与えて子供を作らせてしまいました。それにも拘わらず、のちには嫉妬心からハガルをいじめたのです。このサラをどうして神に従った女性の代表者と考えることができるでしょうか。けれどもペテロは、このサラを取り上げました。確かにサラには失敗も弱さもありましたが、夫アブラハムに妻として従い通したからです。死んで葬られるときまで、サラは夫に従って生涯定まった家を持たず、旅を続けました。ひとり子イサクを献げるために夫がモリヤの山に向かったときにも、旅立つ朝、悲しみに耐えて二人を見送ったサラの姿を想像することができます。モリヤの祭壇は、アブラハムとサラの夫婦の信仰の現われなのです。
ペテロが取り上げたサラは、偉大な信仰者の模範でも、優れて立派な妻の模範でもありません。人間のありのままの姿の代表なのです。不信仰とそれ故の失敗が繰り返されています。しかし、夫に「従った」人生でした。神の憐れみによって赦され、自分の失敗を悔い改め、神のもとに立ち返ることを繰り返しながら、夫に従い通した信仰者である妻の見本としてペテロは示しているのです。この関係は、すべての人間関係にも当てはめて考えることができます。お互いに従い合いましょう。お互いが神のものとされるためです。神を愛し、神に従う歩みは、目に見える兄弟姉妹にも謙遜に「従う」生き方によって現わされるはずです。神に望みを置いた生き方を、目に見える関係の中でも証しする者となりましょう。