「神の御前に価値あるもの」(後編) 教会標語⑩

「神の御前に価値あるもの」(後編)

 

2017年11月

教会標語⑩        ペテロの手紙第一 3章1-7節

牧師 松元 潤

 

クリスチャンとは何者かを語る中で、ペテロはクリスチャンの大きな証しとして大切な人間関係を述べました。ローマ帝国の厳しい迫害の中にいるクリスチャンたちに向かって、ペテロは「権威に従う」という信仰をテーマに、クリスチャンがなすべき証しについて語ったのでした。キリストご自身の地上の生涯が「父なる神に従う」事を全うされて神の栄光を現されたからです。どんな主人にも従う奴隷の姿、父なる神に従い通したキリストの姿、そして夫に従う妻の姿を語った後、今日の夫に対する勧めがあります。

私たちは「従う」事を嫌い自分の権利を主張するのですが、権利には責任が伴っていると考えさせているのが、夫の立場です。自分の権利は主張しても責任は取らない、という自己中心な生き方が現実の人間関係に溢れていないでしょうか。「権威」ある立場には、責任が伴うのです。それは、従う存在に支えられてこそ果たせる責任でもあります。聖書が語る夫の立場から、神の御前に価値あるクリスチャンの生き方についてご一緒に考えてみましょう。

 

Ⅰ.第1に、クリスチャンの夫にとって「神の御前に価値あるもの」とは、妻を神から与えられた存在として「ともに生活する」ことです。

これまで妻に対して語ってきたペテロは、7節から「同じように」と夫に対して語りかけています。ペテロは人間関係の教えを語る際に、AとBという二者の関係を並べて、神の秩序に従って「同じように」ということばを繰り返しています。このような使い方においてペテロは、神の秩序において与えられている権威を相手のために用いるように語っているのです。Aに対してBに従うように命じられた後、「同じように」と語りかけられているBに対しては従ってくれる存在のためにその権威を用いるようにということになります。権威が与えられている者は、その権威は責任を果たすべき家族・組織の益となるように用いなければなりません。

 

家庭において神から権威を与えられている夫の果たすべき役割とは、「妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活する」ということです。「自分より弱い」ということばは、夫である男性が自分自身も弱い存在であることをわきまえた「より弱い」という意味を持っています。より弱いとは、精神的・道徳的・知的な意味ではありません。神が男と女を造られた時点で身体的に違う力を持つ存在とされていることを考えなければなりません。あらゆるスポーツ競技を男女別に行わなければ公正な競技とならないことにも現されているでしょう。創造の時点で、男と女は違った存在とされているということです。

ペテロは、夫がそのようなわきまえを持って「妻とともに生活し」と勧めています。夫は妻とともに生活することに対して責任を負っているのです。妻の言動・体力・精神状態に対して責任を負っていることをわきまえなければなりません。わきまえる、とは知識と関係のあることばで、夫は妻のことをよく知っていなければならないということです。ここに記されている夫と妻の関係は、すべての人間関係の原点と言えます。人間関係の中には、神の創造の秩序のゆえに与えられた「権威」ある立場があります。それは、その集団全体に益をもたらすための責任がある「権威」です。そして、それは謙遜に従う周囲の人たちの姿勢が助けとなって果たすことのできる責任でもあります。夫が正しく権威を用いるためには、妻は従うことで夫を助けることができます。同時に、夫もまた従いやすい夫でなければならないでしょう。どのような関係においても、自我を通すのではなく、主にあるわきまえによって相手を正しく知ってともに生きる者として歩みましょう。

 

Ⅱ.第2に、クリスチャンの夫にとって「神の御前に価値あるもの」とは、妻は夫にとって神からの「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」だという尊敬を持って歩むことです。

ペテロは、夫も妻も神から受け継ぐ霊的財産は同等な共同相続人という立場であることを「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」と表現しました。この手紙の1章4節でも「朽ちることも、消えゆくこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。・・・これは、天にたくわえられているのです」と語っています。国家の厳しい迫害を追い風にするような横暴な主人たちが多くいる社会において、それでも「従う」というクリスチャン奴隷たちの姿は大きな証しの力となるものでした。しかしそのような生き方を実行するには、忍耐・勇気だけではなく、報いも必要でした。クリスチャンたちが置かれている厳しい環境を意識して、ペテロはクリスチャンが受ける報いを思い起こさせようとしています。この世にある富も権力も消えゆくものにすぎないことを語り、信仰者に約束されている主からの報いは「朽ちることも、消えゆくこともない資産」だと励ますのです。パウロもまたペテロ同様に「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ローマ8:17)と語っています。キリストとの共同相続人ともされているわけですから、ともに受け継ぐ資産は、折半できないものと考えなければなりません。共有して生きないなら意味がない資産なのです。

ともに受け継ぐ、ということは、お互いが神の前に共同相続人としてパートナーになっているということです。たとえば、一棟のアパートの管理のように、それは真っ二つにすることはできません。家賃収入を分けることはできますが、修繕やトラブルに備えて協力して対応する準備を考えておかなければならないでしょう。自分にとって都合の良いことばかりではありません。資産を受け継ぐ者には、危機管理も求められ、受け継ぐ資産に対する責任が生じるのです。神からの資産を受け継ぐ者には、神に従う生き方という地上における果たすべき当然の責任があります。主にあって夫婦とされた者は、お互いが神の資産を受け継ぐ共同相続人であり、分離できない神の恵みの中でともに生活する者であることをわきまえなければなりません。しかし、この生活には外からも内からも戦いが生じるのでペテロは最後に「あなたがたの祈りが妨げられないためです」と語りました。性質も考え方も違う人間同士がともに生活するためには、主ご自身に守っていただかなければなりません。夫婦の関係を支えるものは、祈りです。夫は、妻が神の財産を受け継ぐ大切な共同相続人であることを心に留めて歩まなければなりません。夫は、自分自身が妻にとって従いやすく尊敬しやすい夫であるように祈らなければなりません。

あらゆる人間関係において、自分の意見や考えばかりを一方的に押し付け相手を支配するような歩みではなく、ともに神の恵みを受け継いで生きているという自覚を持って人間関係を築いていきたいものです。