「神の所有とされた民」教会標語④
(ペテロの手紙第一 2章9,10節)

人間関係においてお互いの関係を表現する時に、私たちは決して「だれかを所有する」とは言いません。人間は、誰かに対して所有感を抱いた場合、自己中心の罪によって相手の人格を奪い、関係を壊すからです。しかし聖書は、すべての人間が神によって造られた存在であるゆえに、「神に所有された存在」として生きることこそ人間の本来の立場であると語るのです。すべてのものを造られた神は、造られた人間にとって何が最も良いことなのかを考え、与えることができる方だからです。もともと神の所有の存在であった人間は、罪によって神から離れ、本来の造られた目的から外れた歩みをする者となってしまいました。その人間を本来の神の所有とされるためにイエス・キリストが十字架で人間の罪を贖い復活のいのちを与え神の国に生きる者としてくださった、というのがキリストの福音です。神のものとして取り戻された私たちクリスチャンの立場について改めてご一緒に考えてみたいと思います。

 

Ⅰ.第1に、「神の所有とされた民」としてのクリスチャンの立場は、神の憐れみと恵みによって神に生かされている存在であることを思い出させてくれる立場である、ということです。

ペテロはローマ帝国の迫害の中を生きるクリスチャンたちを励ますために、クリスチャンの立場について語ってきました。9節で「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民」と語った3つの立場に続き、4番目として「神の所有とされた民」と語りました。ペテロは、先の3つの立場を旧約聖書全体を流れている思想と関係付けて語ってきたように、「神の所有とされた民」という立場についてもまた旧約聖書から神が導かれてきた歴史全体を意識して語っています。「所有とされた」はもともと「造った」ということばから来ています。神が「造った」被造物はすべて無からの創造です。創造者と被造物である人間の関係を意識した上で、そこに目的と造り手の思いが加えられた「造った」ということばがイザヤ書とエレミヤ書に記されています。

1)一つには、造られた目的を表す「造った」ということばです。イザヤ43章では「わたしのために造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝えよう」と、人間が神の栄誉を宣べ伝えるために造られた存在であることが語られています。その上で、どのような苦しみの中でも神の完全な守りがあることが43:1,2で語られています。

2)二つ目には、造り手が丹精込めて「造った」という、創造者の思いを表したことばです。エレミヤ書では造り手を「陶器師」ということばで表しています。陶器師が粘土と向き合って作品を作り上げていく時、丁寧に思いを込め、愛情を込め、陶器師の願い通りのものを作ろうと労苦します。大量生産はありません。一心不乱にろくろを回しながら自分の思い描いているイメージと一致するまで何度もやり直して作品として完成しようとするのです。

神の所有とされた民としての私たちは、神から見れば願い通りの作品となっていない欠けだらけの状態であっても、見捨てられることがありません。神は私たちを修正しようと見つめてくださっているのです。どんな試練や問題や私たちの罪ゆえの失敗があっても、神の眼差しは変わりません。神は忍耐を持ってあわれみと恵みによって私たちを守ろうとされるのです。同時にあわれみと恵みによって私たちを作り変えようとなさるのです。神の手の中の作品としての自分であることを忘れないでいたいと思います。

 

Ⅱ.第2に、「神の所有とされた民」である私たちは、罪の暗闇から光の世界へと招いてくださった神の素晴らしいみわざを宣べ伝えるために召された者である、ということです。

さらにペテロは、今まで述べてきたクリスチャンに与えられている4つの立場がどのような目的のためかを語っています。「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いて下さった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」と宣言するのです。やみから光の中へ、という表現はパウロがエペソの教会やテサロニケの教会に宛てた手紙の中にも記されています。パウロもまた旧約の預言がこの時代のキリストの福音がもたらしたものとつながっていることを意識しているのです。ペテロは一貫して、旧約聖書から約束されてきた神のみわざとしての救いを意識しているのです。救い主誕生に関する預言であるイザヤ9章では「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」と語られています。人間を暗闇から光の場所に移す、それがキリストの福音であり、聖書が語っている「救い」だということです。人を憎み妬み争う世界から赦し合う世界へ、他の被造物を人間の自己中心な欲望のために傷めつけ苦しめていた世界から全被造物と和解する世界へ、生きる場所が移し変えられていくことが救いの現われなのです。私たちの生きている居場所は、そのような霊的な移動をしているでしょうか。

キリストを宣べ伝える、ということは、キリストが十字架につけられた出来事だけで終わりではありません。すべての被造物との和解と最終的な神の国の完成に向かっていくという大きな世界の祝福を伝えることです。私たちクリスチャンは、罪の暗闇の中にいた時には見えなかった神の実質を知る者とされています。神の光の中に移されたことで、神の広さ、深さ、高さが見えるようになったからです。神の豊かさ、大きさを知っていくなら、私たちの生き方、他者との関係の築き方も違ってくるはずです。私たちがどれほど素晴らしい神に愛されているかを知るからです。神に造られ罪を赦されて再び神の御子のいのちによって買い戻された私たちが生きているところには、神のご性質が現されていなければなりません。私たちが生きている世界は、光のある場所、平和がある場所、神の豊かさを示す多様性がある場所でしょうか。闇から光へ私たちを移して下さった神のみわざを宣べ伝えるために、神に造られ、罪によって神から離れたにもかかわらず再び神の所有とされた私たちであることを覚えたいと思います。この方の素晴らしさをどれ程深く知って生きているか、その知り方こそが私たちが闇の中から光の中に招かれ移された者である証なのです。

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