「神の民の信仰と祝福の継承(後編)」 教会標語②

「神の民の信仰と祝福の継承(後編)」 
         
    2018年3月
教会標語②
創世記 12章1-4節
牧師 松元 潤
人間は誰も、自分の願い通りの人生を歩むことはできません。思いがけない苦しみ、予想もしなかった悲しみを通されます。キリストは愛する弟子ペテロに向かって「あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。・・・わたしに従いなさい」とお語りになりました。キリストがお語りになっているように、順境の時も逆境の時も私たちにとって大切なことは、主に従うことです。神の主権の下に私たちの人生はあり、神のあわれみと恵みによって生かされている私たちだからです。旧約のイスラエルの民にも、具体的なことをわからないままに神の祝福の約束を信じて神のことばに聞き従う歩みが求められました。彼らの現実は不従順による失敗の繰り返しでしたが、それでも神はご自分の約束を守り、罪を悔い改め従い直す民を守り導き続けてくださったのです。
 従うことを求める神は、私たち従う者を祝福したいと願っておられる方です。私たちのための最善の道を用意しておられる方です。それはアサフが試練の中で賛美した詩篇のように、「海の中・・・大水の中」にあって、今は見えないかもしれません。しかし、わからない中でも主に従う決断こそ信仰なのです。主はアブラムに備えておられたように、私たちのためにも祝福の道を備えておられます。アブラムの人生から、神の祝福を継承する教会の歩みについてご一緒に考えましょう。

Ⅰ.第1に、神の祝福は、「私たちが信仰によって神に従う生き方」と切り離して考えることはできません。
神は、「あなたの父の家を離れて・・・わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば・・・」と、神に従う者に用意されている祝福を宣言なさいました。それを聞いた「アブラムは主が告げられたとおりに出て行った」のです。しかし、神は具体的な地名をおっしゃったわけではありません。アブラムは、ただ神の示すままに従う決心をして出発したのでした。ヘブル人への手紙では「信仰によって、アブラムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しをうけたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました」と証言されています。具体的にどこに住むか、どんな暮らしをするかということ以上に、わからないながらも従う態度こそ神を愛し信頼している態度です。夫婦であっても、親子であっても、心から愛し合う関係は、共に生きる、一緒にいる、ということを大切にする関係です。何もかも教えて欲しい、何もかも知りたい、相手に情報を全部提供させてから、従える内容だった場合に従うという関係に信頼関係は見えません。信仰生活は、神と取引をする生活ではありません。この願いを聞いてくれたらお献げします、ということではないし、真面目に教会に通いますから悪いことが起こらないように守ってください、ということでもないでしょう。神が私たちに求めておられるのは、神を愛し神と共に生きることです。
 神を信頼し神が共にいてくださる事実が最も価値あることだと思っているなら、私たちは先の先まで見通す必要を感じないし、神が知っておられることを全部自分に知らせて欲しいという要求も持たないでしょう。「これからどんなことが起こるのかを全部教えてくれたら、神さま、出発いたします」というのは、神を愛している者の姿とは言えません。聖書の登場人物との関わりを見ますと、神さまは最初から全てのことを一部始終知らせたりはなさっていません。大きな枠組み、変わらない真実が示され、出来事が進む中で具体的に準備されていた事が示されます。私たちは先が見えないままに進んで行く事に不安や恐れを感じます。しかし、神が私たちを愛し祝福しようとしておられる事は変わらない真実なのです。神のことばに従う者として歩みましょう。神を愛し信頼しているなら、わからない事も含めて従う歩みができます。

Ⅱ.第2に、私たち自身が、周囲の人間関係・次の世代に神の祝福を持ち運ぶ「神の祝福の器」である、ということです。
 神に従うアブラムに約束された神の祝福の内容(2,3節)は、大きく分けて3つの事柄として考える事ができます。一つ目「主に応答した者は、その人生において祝福を受けること」、二つ目「主に応答し従った者の人間関係が祝福されること」を、前回(つのぶえ2月号)取り上げました。今回は3つ目の祝福で、「(あなたが)神の祝福となり、祝福の継承者となること」です。これはクリスチャンホームに限定された約束ではありません。家族の問題で苦しんでいるクリスチャンを含めた全ての信仰者に対する神のことばです。
 2節の最後で「あなたは祝福となりなさい」と命じられています。第三版訳では「あなたの名は祝福となる」、新共同訳では「祝福の源となるように」、口語訳では「あなたは祝福の基となるであろう」と、様々ですが、強い命令であることは確かです。アブラムは祝福そのものとなれと命じられているのです。しかしこれは、頑張れという激励のことばではありません。聖書で、「〜あれ」というこの命令のことばと同じ原語が羅列されているのは、創世記1章です。「神は仰せられた。『光、あれ』 すると光があった」(創世記1:3)という記述に始まっています。この「〜あれ」ということばと同じことばで「祝福となりなさい」と言われているのです。つまり、これは強い励ましというような気持ちのことばではなく、必ずそれが現実になる、という力を持つことばだということです。神が「〜あれ」と仰せられるとその通りのことが成就しました。そのように神が「祝福となれ」と言われたなら、それは祝福となるのです。もちろん、神の時間の中でそのことが現実となるので、私たちはその瞬間にはわからないかもしれません。また、創世記の最初にはなかった罪の問題もあります。私たちは罪によって祝福を妨げるような失敗や関係を壊す過ちを犯します。だから罪を悔い改め神に立ち返って、祝福を持ち運ぶ器として整えられていく時間が必要です。でも神のことばは必ず成就することを聖書は証明しています。私たちが繰り返し神のもとに立ち返る限り、私たちの行くところに神の祝福がもたらされるのです。
 今はまだ、自分は神の祝福の器としてふさわしくないと感じるかもしれません。でも、私たちは神から「祝福となりなさい。すると祝福になった」とされている存在なのです。神のことばは成就します。神は常に真実な方なので約束はお守りになります。だから、私たちはすでに「神の祝福の器」なのです。足元の現実を見て問題点を見つけては指摘し他者を攻撃するような歩みではなく、他者に神からの祝福を持ち運ぶ器、あなたが神と共にいることを他者が知ることのできる器として歩もうではありませんか。