「私とあなたの間に、争いがないようにしよう」 教会標語⑤

「私とあなたの間に、争いがないようにしよう」  教会標語⑤ 創世記13章1-13節 牧師 松元 潤
       

 アブラハムの人生は、自分が行きたいところに行く人生ではなく、神が導かれ神がなさることに従う人生でした。『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう(ヤコブ4:15)』は、私たちクリスチャンの信仰生活の中心にあるものでしょう。エミー・カーマイケルという宣教師は、日本とインドで素晴らしい働きをし、多くの信仰書を残して、今なお私たちに霊的なことを教えてくれている方です。しかし、彼女の最晩年の大切な働きは、20年近くの周囲の人々の介助を必要とする不自由な生活の中で生まれました。自由に体を動かすことができなくなったために、訪ねてくる人々の相談に乗り祈る日々を過ごしたからです。彼女の部屋の前には常に行列ができていました。彼女にとって身動きの取れない時間、神との祈りの交わりは長く深くなり、多くの人たちを霊的に助けたのでした。
 人の思いと神のご計画はしばしば違います。私たちの人生もまた願ったようにではなく、思いがけない試練や困難に導かれることがあります。しかし、困難に見える地で、神の祝福を多くの人たちに分け与える働きをする結果になることがあるのではないでしょうか。アブラムもまた、予想外の困難に巻き込まれます。身内同士の人間関係の問題です。その問題と向き合ったアブラムの姿から、神の祝福に与る者としての人間関係の築き方についてご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅰ.第1に、私たちはお互いに違う人間であるからこそ、ともに歩もうとする中で人間関係の問題は必ず起こるということを、わきまえる知恵を持っていなければなりません。
 アブラムは自分の失敗にもかかわらず、神の憐れみによってエジプトで手に入れた多くの家畜や財産まで持って旅立つことが許されました。エジプト王に命を奪われても不思議ではないような自分の過ちを通して、神の憐れみを心に深く刻んだのです。だから、ベテルとアイの間の以前に祭壇を築いた、最初の天幕を張った場所に戻ったのでした。そして「主の御名を呼び求めた(4)」のです。アブラムは、自分の失敗が許され、奇跡的に命も家族も全てが守られたのは、神の憐れみと恵みでしかないことを理解しています。だから、自分の罪を悔い改め、神に感謝する思いを、何よりも礼拝として献げたのでした。
 そこで、また新しい問題が起こります。「アブラムと一緒に来たロトも、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた(5)」ことから、人や財産が増えたために人間関係の問題が起こるのです。「その地は、彼らが一緒に住むのに十分ではなかった。所有するものが多すぎて、一緒に住めなかったのである。そのため、争いが、アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちの間に起こった(6,7)」のでした。「争い」ということばは、暴虐を意味します。ことばと行いによる暴力的な行為、相手を傷つけ破壊的な日常が起こっていたということです。しかし、アブラムは愛するロト家族を思いやり、落ち着いた態度で、信仰によってこの問題と向き合います。アブラムは現状の争いに感情的な興奮を持ち込むことなく、ロトに対する思いやりをもって語りかけたのです。エジプトでの失敗を通して、主の前に自分の罪を悔い改め、主の憐れみと恵みによって生かされている信仰を新たにしたばかりでした。失敗や過ちすらも用いてくださる主の導きを覚えさせられます。

Ⅱ.第2に、私たちはお互いが争わないように、へりくだらなければなりません。
 当時の族長の権限を考えるなら、アブラムは一方的にロトたち家族を追い出すこともできました。また、ロトの家畜や召使の数を制限することもできたでしょう。でも、アブラムはロトたち家族と争いがないように、平和的な解決のためにどうすべきかを考えたのです。ロトを愛していたからです。圧倒的な力を持つ年長者であるアブラムのほうから、原文では「どうか、・・・争いがないようにしよう(8)」とお願いしている形でロトと向き合っています。アブラムは謙遜です。「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう(9)」と、ロトが先に選ぶ権利を行使するように提案するのです。
 アブラムとロトの前に広がるヨルダンの低地全体は、主の園のようでした。本来なら、アブラムに選ぶ権利がありました。アブラムは先に自分の住む地を選んで、ロトに反対側に行くようにと命令することもできたのです。しかし、アブラムはそれをしませんでした。なぜでしょうか。エジプトでの体験から学んだことがあったからです。アブラムはエジプトで嘘をつき、王を騙したのにもかかわらず、かえって宮廷が災いで打たれ、アブラムは妻を取り戻し、財産も命も守られました。人間の善行や環境が、自分の人生を祝福するのではないことを学んだのです。アブラムは、神の憐れみによって生かされているにすぎないことを知りました。だから、この神との関係を第一として生きる以上に大事なものは地上にないという信仰の視点で、ロトに選ぶ自由を与えたのでした。
 一方でロトはどうだったでしょうか。「ロトは自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ(11)」のです。「自分のために」です。おじに対する遠慮も感謝も思いやりもありません。自分の生活を守り、自分が得をする道を選んだことが証言されているのです。やがて、ロトは「自分のために」選んだことの結果を背負わなければならなくなります。自分の罪を悔い改め、自分の失敗を心に刻み主に生かされていることを感謝して礼拝を献げたアブラムは、どの地に住む自由も覚悟も持っていました。だから、アブラムは「私とあなたの間に・・・争いがないようにしよう」と強く願ったのです。神の祝福を持ち運ぶ者として選ばれた最初の約束を覚えていたからです。
 私たちもまた、神の祝福を持ち運ぶ器です。私たちもまた、争いがないように、お互いに仕え合いましょう。うわべの波風を立てない関係のことではありません。神の憐れみによって生かされているにすぎないお互いである、という謙遜を土台とする関係のことです。お互いに言いたい放題を言い、お互いの権利を主張し合ってすっきりしましょう、というのは神のみこころではありません。罪人が自我で交わるとき、どちらかが忍耐したり、傷ついているからです。対等にすっきりするという関係はないのです。アブラムは、自分がエジプト王家を傷つけたことを知っています。それなのに自分が守られた事実は、アブラムにとって良い重荷となったに違いありません。アブラムはどこまでも、愛するロトとの関係に愛が残る道、争いがない道を選んだのでした。
 私たちも主の十字架によって他の人のではなく、自分の罪が赦された者として、自分の十字架を負って「争いのない」平和な関係を築いて歩もうではありませんか。