「私はあなたのおきてを忘れません」

「私はあなたのおきてを忘れません」          

詩篇119篇81-88節   2018年新年礼拝
     牧師 松元 潤
毎年、新しい年を始めるにあたって、詩篇119篇を味わっています。この詩篇は、ヘブル語のイロハ歌のようになっており、各段落が一つのヘブル文字で揃えて語られています。今年は11段落目で、すべて各文の頭はカーフという文字で揃えられています。この文字で始まることばは、とても激しく息を吹き込むように発音します。このことばを発する激しい音そのままに、この段落の内容も人生における非常に厳しい環境を生きる作者の葛藤が現わされています。人生の最も厳しいとき、理不尽な問題で悲しみや怒りや憎しみの嵐が心を吹き抜けるとき、私たちはどのように信仰を働かせるのでしょうか。試練の中を生きるダビデの訴えから、ご一緒に学んでみたいと思います。

Ⅰ.第1に、みことばを待ち望むことです。
 81節「私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです」の「絶え入るばかり」は、死にそうに息も絶え絶えの状態を示します。実際に、ダビデの人生で遭遇した試練は大きなもので、サウル王や後には実の息子からも命を狙われるという壮絶な人生でした。しかし、その試練の大きさが、彼を絶え入るばかりにしているのではありません。ダビデは、「あなたの救いを慕って」と神のみわざを切望する信仰を現わしているのです。それは同時に、82節で「私の目はあなたのみことばを慕って絶え入るばかりです」と語り直されていることでも現わされています。つまり、過酷な試練の中でダビデが最も強く求めているのは、敵をやっつけることでもないし、自分を正しいと認めさせることでもなく、神のことばである、ということです。
 ダビデは試練の中で自己中心的な解決を求めたのではなく、神のことばを求めました。神のことばを待ち望む気持ちの大きさが緊張感となって、絶え入るばかりの状態でもあるのです。ダビデにとって、救いとは、神からの語りかけである神のことばをはっきりと聞いて神のみこころを知ることだったからです。試練の中で神の声が聞こえない自分の状態を苦しんで、「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と叫んでいます。私たちも、どんなときも、私たちの救いそのものである神のことばを待ち望みたいものです。

Ⅱ.第2に、神に対する期待を失わないことです。
 83節以降にはダビデが受けている試練の現実と、その現実の中でダビデが神に期待し続けている信仰告白が交互に表現されています。ダビデの置かれている状況は変わりません。「たとえ煙の中の皮袋のようになっても」と表現します。皮袋は動物の皮をなめして四肢を縛り作った入れ物ですが、古くなると伸縮しなくなり役立たなくなります。役に立たない皮袋は、家の天井に吊るされて家の中で燻されて黒くなり干涸びるのです。それほどに問題はさらに深刻になって、ダビデは自分がボロボロになっていると感じています。ダビデがそんな状態なのに、敵対する者たちはもっと酷い問題を投げかけてきます。85、86節では「高ぶる者は私に対して穴を掘りました。・・・彼らは偽りで私を迫害します」と、敵対する者たちの憎しみはむしろ深まっていることを告白するのです。「高ぶり」とは、泡・バブルを意味することばで、自分を実質以上に大きく見せようとすることです。弱いから威張る、中身がないから見栄を張って自己主張するような人たちの姿です。その原因をダビデは「彼らはあなたのみおしえに従わない」から、と語ります。
 そのような状況の中で、敵対する者たちの内側に起こっている罪の構造を理解するからこそダビデは「私はあなたのおきてを忘れません・・・私は、あなたの戒めを捨てません」と告白しています。試練の中で最も大事なことは、罪から守られることだと知っているのです。「おきて」は、聖書では独特の意味を持ち、彫刻する、という意味です。つまり、信仰生活においてみことばは、一朝一夕に身につくものではなく、削られ、彫られ、磨かれることを繰り返して時間をかけて自分が造り変えられていく力をもつものだということです。ダビデは罪を犯し、大きな失敗もするのですが、悔い改めて神のことばに聞き直す点において優れていました。神のことばに聞き直し、自分自身を作り変える信仰の歩みをしたいものです。

Ⅲ.第3に、自分が神の恵みによって生かされている者であることを忘れないことです。
 最後にダビデは「あなたの恵みによって、私を生かしてください。私はあなたの御口のさとしを守ります」と告白しました。みことばを聞いて従う歩みは、自分に対する神の恵みを知らなければ始まりません。この二つの文章は、恵みによって私を生かしてください、そうすれば・・・とつながっています。神に従うことに条件を付けているわけではありません。神の恵みを本当の意味で知らない者は、みことばに従うことは難しいのだと語っているのです。
 クリスチャンの一番ベースにあるべきものは、自分は神の恵みによって生かされているにすぎない、という理解です。それは自然に私たちを謙遜へと導きます。主の憐れみによって救われたことを知っている者は、自分を正義だと考えたりはしません。自分を基準に、自分の意見を通し、他者をさばき、交わりを壊して平気な態度でいることはできません。神の恵みによって生かされている者、それがクリスチャンです。それを知っている者は、義務としてではなく、心から喜んで神のことばに聞き、そして従うのです。神に従う者と神に従う者の間にある者は、平和です。
 新しい年、神の前に受け入れられる謙遜と感謝を持って、神の恵みを喜んで歩もうではありませんか。