「聖なる国民」教会標語③ 
(ペテロの手紙第一 2章9,10節)

「聖なる」という形容詞は、本来は神のご性質を表現することばです。それが神を信じる人間に対して表現されていることは、私たちの生き方に神の聖なるご性質が現されることが求められている、ということでしょう。

日本の学校制度の歴史を振り返って、文部省が国家が正式に私立と認めた学校には「徴兵制を猶予する」という特権を与えていた時代がありました。他にも幾つかの特権が付与されていましたが、これらの特権に与かるためには「いっさいの宗教儀式・宗教教育を禁じる」という条件を呑まなければなりませんでした。しかし、関西学院は「聖書と礼拝なくして学院なし」という方針を貫き通し、その結果、入学希望者が激減したのです。宗教儀式を禁じる代わりに多くの特権を与えるこの制度が撤廃されるまでの12年間、学校経営はギリギリの状態に追い込まれました。しかし、関西学院は、創設の目的に立ち続け、神のものとして生きることを選び取ったのでした。

この世において、神のものとして生かされていることを意識させるのが、私たちが「聖なる国民」とされているということです。「聖なる国民」としての私たちのこの世における立場についてご一緒に考えてみましょう。

 

Ⅰ.第1に、「聖なる国民」である私たちは、神の特別な宝としての存在である、ということです。

聖なる国民」ということばは、ペテロがローマ帝国による厳しい迫害下のクリスチャンを励ますために、クリスチャンのアイデンティティとして示した第三番目の立場です。このことばは、出エジプト記19章4〜6節の「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」という神のことばからの引用です。全世界の創造者であり所有者である神にとって、神のことばに応答し聞き従う存在は、被造物の中でも特別な宝だというメッセージがここにあります。

旧約においては、これはユダヤ民族に向けられたことばでした。しかし、ペテロはこのことばの前の「選ばれた種族」が血族としてのユダヤ民族ではなく、キリストの十字架と復活のいのちに与かるクリスチャンが皆のことである、と意識して表現しています。ですから、ここではユダヤ人ではなくキリストを主と告白した者が神の宝である「聖なる国民」となったのだ、と語られているのです。ペテロはこの手紙の中でキリストを信じないユダヤ人を「異邦人」と呼んでいます。この手紙の宛先は「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ」などのギリシャ人クリスチャンです。かつては、ユダヤ人は神に選ばれた者、聖なる特別な民であったのに、今はその立場が逆転したのです。キリストの十字架と復活の信仰に立つ者が、選ばれた民、聖なる国民であり、キリストをより頼まないユダヤ人たちは異邦人だとペテロは語っています。

神により頼まなくなったユダヤ人と以前は軽蔑されていた異邦人クリスチャンたちの霊的立場の逆転について、私たち自身の信仰を振り返ってみなければなりません。私たちはクリスチャンとしての歳月をどれほど重ねても、キリストの福音を信じる者となったことは一方的な神の恵みとあわれみによることを忘れず、初心を思い出すことが大切です。成長することは傲慢になることではありません。自らを良しとして、自分の意見や考えを受け入れない者を否定する歩みは、自分が神の宝とされているという本当の価値を知っている者の姿とは違います。特別に愛されていることを知っている者は争い好きではありません。自分を正義と主張し続け分派を起こすこともありません。神は私たち一人一人を「わたしの宝」と言われました。神のことばに聞き従う者だからです。神のことばに聞き従う者は、神の愛のご性質を現わす特別な「聖なる国民」でもあるのです。

 

Ⅱ.第2に、「聖なる国民」とされている私たちは、神のものとして世との違いを証明できる者として歩まなければならない、ということです。

聖なる国民」とは、神に特別に取り分けられた者のことです。ペテロは、神に特別に取り分けられた者として証しをするために大切なことを二つ上げています。

ⅰ)一つには、クリスチャンにはこの世と明確に分離して生きなければならない領域がある、ということです。

2章12節で「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」と語っています。りっぱなふるまいとは、目に見えて現れる異邦人との違いを意味しています。能力や美しさのことではなく、罪を警戒する聖い生き方のことです。この手紙の1章16節は、「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない」というレビ記(11:44)からの引用です。現代に生きるクリスチャンにとって、食べたり触れたりしてはいけないものという規則はありません。しかし、聖いということが意味している「分離」について、クリスチャンは軽視してはならないのです。この手紙の2章11節でペテロは「・・・あなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」と語っています。さらに4章3節では肉の欲を意味する罪の問題を具体的に「好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝」と記しています。私たちは罪とは完全に分離した神の世界のものである、ということをどのように考えて歩んでいるでしょうか。

ⅱ)二つ目には、積極的にみことばを実行する、ということです。

分離だけを意識しすぎると、罪を犯さないように関係を壊さないように、あれもこれもしないという大変消極的な生き方になります。ペテロは1章15節で「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい」と、神ご自身に似る生き方、という高い目標をクリスチャンたちに示しています。〜しないという生き方で終わらず、聖なる神に似る者とされて行こうとする歩みです。ここにある「行い」ということばは、これまでの生き方・あり方から大きく変わるという意味のことばが使われています。私たちの過去を知っている人たちが私たちの良い変化を見て、私たちを変えた原因・私たちの変化の理由に興味を持つようになる「行い」なのです。「あなたがたのりっぱなふるまいを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります」(2:12)とペテロは語っています。

積極的なみことばの実行は、みことばを私たちの心の内側に住まわせなければできません。パウロは「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」(コロサイ3:16)と命じました。

私たちの生き方は「聖なる国民」の生き方でしょうか。神に特別に愛されている者として、愛を分かち合って歩んでいるでしょうか。他者を非難することに夢中になっているときに、神の聖さを現わす歩みはできません。みことばを豊かに自分の内側に住まわせるとき、そこに見えてくるものは他者の問題ではなく自分の本当の姿です。みことばに聞き従って、キリストの心が私たちの内側から溢れ出る歩みをいたしましょう。あなたの心に今住んでいるのは、誰でしょうか?

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