「自分に現れてくださった主」 教会標語③

「自分に現れてくださった主」 教会標語③         創世記 12章5-9節  牧師 松元 潤

 昨年から今年にかけて行われた葬儀の中で、天に召された方々の人生を振り返らせていただきました。この時でなければできなかった教会としての葬儀、またこの時でなければ出席できなかったご遺族との交わりを通して、人生の最後の一息に至るまで、神がどんなに細やかにその人個人の人生を配慮し導き、葬儀に出席する家族も含めて働いておられるかを体験させられました。神は、私たち信仰者をひとまとめにして愛しておられるのではありません。キリストの十字架はただ一つであり、この出来事において私たちのすべての罪の赦しを神は宣言してくださいました。だからと言って、神は私たち人間を束にして眺めておられるわけではないのです。一人一人の人生、一人一人の人間関係のすべてに目を注ぎ、具体的にその人にとっての最善を理解して導いておられるのです。私たちはそのことを心から信じているでしょうか。アブラハムの人生においても、神はアブラハムという一人の人のために現れ、アブラハムの将来についてお語りになりました。アブラハムと向き合った主は、私たち一人一人とも向き合われる主です。あなた個人のために、みこころを現してくださる主についてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.第1に、私たちの主である神は、「私」個人のために語りかけご自身を現してくださる方です。
 「アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した」(5)と記されている通り、アブラムは家長として親族・しもべたちを連れて旅に出ました。この当時すでに多くの財産を持っていたことも明らかにされています。家族・親戚・雇い人たちとその家族、と全ての所有財産を持っての旅は、大移動でした。それだけに、もう2度と帰ってこないという覚悟も伴ったものでした。「こうして彼らはカナンの地に入った」のです。カナンの地の中心に位置するシェケムに到着した時、主はアブラムに現れて「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える」と言われました。「あなたの子孫に」ということばは、今宣言されている神の祝福が誰のためのものであるかが強調されていることばです。
 そもそも、アブラムが神から「わたしが示す地へ行きなさい」と言われたことで手放したものは、当然自分が受け継ぐべき「父の家と土地」でした。アブラムは後継ぎの権利を手放して新しい出発をしたのです。一度は所有して当然のものを、信仰によって手放した人間に対する神の祝福の約束でした。アブラムは、神の祝福の約束の具体的な中身を知って出発したわけではありません。それは漠然としたものでしたが、アブラムは神のことばに従うことを選んだのです。アブラムが抱える多人数の身内と家畜を含めた財産を考えるなら、アブラムにとって安住の居住地は最大の心配事だったでしょう。その点で神は、アブラムにとって最も大きな問題となる所有地について約束してくださった、ということです。
 私たちにとって、神に従う道はあらかじめ全てが見えるわけではありません。しかし、神は私たちが今最も不安なことは何か、私たちにとって今一番必要なことは何か、・・・すべてをご存じで私たちの前にご自分を現して励ましてくださるのです。

Ⅱ.第2に、私たちに現れてくださる主なる神は、問題のただ中にいる私たちと共にいてくださる方です。
 アブラムは、カナンの地を神が与えてくださる約束の地と信じ感謝しました。アブラムは感謝を「そこに祭壇を築い」て、礼拝として現しました。アブラムが感謝を献げたのは「自分に現れてくださった主のために」です。神のことばを聞き、神の愛・神の真実・神のご配慮に触れて、アブラムは礼拝を献げずにはいられなかったのです。
 この時点ではアブラムは神から目に見える形では何も受け取っていません。実際にはすぐさまアブラムがカナンを占領して暮らせるわけではありませんでした。アブラムが神の約束のことばを受け取った時、「当時、その地にはカナン人がいた」と聖書には記されています。イスラエルの民がカナンの地を相続するのは、この時から500年以上後のことです。その間に、イスラエル民族はエジプトでの奴隷生活も体験します。神が約束されたことばが実現するまでに数世代が入れ替わるのです。
 また、カナンの地の現実は、何のために父親たちが暮らしていた家を離れたのかわからないような、異なる神々を拝む文化の地でした。神はすべてを整えて、真の神を拝む人々の住む理想郷にアブラムを導いてくださったのではありません。アブラムが導かれたのは占うものという意味の「モレの樫の木」がある場所で、偶像崇拝のシンボルの地でした。異教の習慣の真っ只中に導いて、神はアブラムの将来に対する約束をなさったのです。アブラムの信仰から考えれば、問題だらけの地における神の約束の宣言でした。ですから、希望的な風景が何も見えないまま、アブラムはただ主のことばを信じて礼拝を献げたのです。
 そしてアブラムは、「そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張」りました。ヨシュア記24章では「わたしはあなたがたの父祖アブラハムを、あの大河の向こうから連れて来てカナンの全土を歩かせ」とあります。現実にはカナン人が住む偶像崇拝の地を隅から隅まで神はアブラムにお見せになって約束を宣言なさったのでした。目の前の風景に心を支配されたなら、人間的には、何一つ保証は感じられないような現実だったでしょう。でもアブラムは、目に見える風景ではなく、今は見えないけれども神の約束のことばを信じたのです。アブラムはこの後、神の約束のことばを聞いて・信じ・従い・礼拝を献げるという歩みを繰り返していきます。アブラムがアブラハムと改名され、その子のイサク、さらにイサクの子のヤコブ、ヤコブの子のヨセフ、そしてヨセフが死んだ後もカナンの地は彼ら一族のものとはなりません。それほど代替わりを重ねてなお、さらなる奴隷としての苦難の時代をエジプトの地で過ごしました。あの神の約束はどうなってしまったのか?・・・信仰がなければ希望を見失ったでしょう。しかし長い時間を経て、神の約束は果たされたのです。
 私は北栄教会の牧師として導かれて60人以上の方々を天に見送りました。そのお一人お一人の人生の最期に立ち会って思ったことは、神がどれほど一人一人の人間を愛し導き守っておられたか、という事実です。今は、問題の渦中にいて苦しみしか感じられない、ということがあるでしょう。今は、神が与えてくださった場所が問題だらけの場所にしか見えない、ということもあるかもしれません。しかし、神の時間の中ですべてを振り返るなら、神は確かにあなたにとって最も必要なものを知っておられ最も良いものを用意しておられたことを知るでしょう。私たちの前にはいつも復活の主が現れておられます。この主の臨在の中で、神のことばを信じて従い神の祝福を現実として受け取る歩みをしたいものです。