「選ばれた種族」教会標語①
(ペテロの手紙第一 2章9,10節)

今月から、今年の教会標語「自立した信仰者として、共に」を学んでいきます。神様と一人一人の関係である信仰が成熟していくとき、そこには他者に依存しない「自立」と、同時に他者と良い交わりを築くことのできる「共に」生きる歩みがあるからです。ボンヘッファーという神学者は、『共に生きる生活』という著書で「ひとりでいることのできない者は、交わりに入ることを用心しなさい。交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい」と語りました。

目標聖句であるペテロの手紙第一の2章9,10節は、ローマ帝国から壮絶な迫害を受けていた初代教会のクリスチャンたちのために、イエスの弟子であったペテロが記したものです。試練が大きいときに大切なことは、何のために生き、何のために働いているかを示すアイデンティティーをしっかりと持っていることです。この手紙の中でペテロは、クリスチャンとは何者であるかを、様々な角度から示し、苦しみの中を生きるクリスチャンたちを励まそうとしています。今日は、第一の「選ばれた種族」としてのクリスチャンの立場を考えてみたいと思います。

 

Ⅰ.第1に、「選ばれた種族」というクリスチャンのアイデンティティーの一つを示す立場は、私たちは特別に神に選ばれた者たちである、という事実を示します。

9節冒頭の「しかし」ということばは、明らかに8節までに述べたことと正反対のことを語ろうとしています。7節を見ると、神に「より頼んでいるあなたがた」と、神に「より頼んでいない人々」との姿が比べられています。クリスチャンとクリスチャンではない人々の対比ではありません。教会の民の中に、神により頼んでいないためにイエスが「つまずきの石、妨げの岩」となっている人たちがいたのでした。特にユダヤ教の伝統の上に信仰を築いた人たちは、キリストの福音によって新しく生まれても今までの習慣や価値観を切り替えることが難しかったからです。

その原因をペテロは8節で「彼らがつまずくのは、みことばに従わないからです」と語りました。自分の信仰の行為を大切にする歩みと、神のことばに聞いて従う歩みの違いを「より頼んでいない、より頼んでいる」とペテロは表現したのです。

クリスチャンと言っても様々な状態の人たちがいる中で、「しかし、あなたがたは」と神により頼んで生きているクリスチャンたちに向けて語りかけます。試練の中で教会にとどまり、キリストの福音に堅く立つ人たちは、神により頼んできた人たちであり、みことばに従ってきた人たちです。それがあなたがたであり、さらにクリスチャンが何者であるかを、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」と説明しています。初めの「選ばれた種族」とは、聖書脚注を見ると申命記の10章15節で「主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々のうちから選ばれた」と説明されています。これには、モーセが律法が刻まれた最初の石板を民の偶像崇拝の罪のゆえに怒って砕いた後、神が憐れみによってもう一度律法が刻まれた石板を与えてくださった出来事が背景にあります。つまり「選ばれた種族」であるイスラエルの民の選びは、民自身にはふさわしい理由がない状態で、神のあわれみに守られている選びであり、神ご自身の一方的なお考えの中での選びだというのです。

神によって選ばれる事実の中に、私たちの立派さやふさわしさという理由はありません。私たちの互いの人間関係を考えるとき、夫婦や友人はお互いがどのくらい素晴らしいかという理由によって関係を結び続けるわけではありません。そのような理由が関係の土台なら、それは脆く壊れやすい関係です。ですからそのような相手の中にある能力や資格による理由ではなく、「その人をその人として」大切にして、愛していこうとする姿勢の中で築かれていくのが人格的関係なのではないでしょうか。だから、聖書が「神によって私たちが選ばれた」と表現するとき、それは私たちの中身に強調点があるのではなくて、神の私たちに対する特別な愛情に焦点が当てられているのです。そういう意味でクリスチャンは、神に「選ばれた」者だとペテロは語ります。私たち自身には何の資格も特別な理由もありませんが、神の愛によって神が私たちをお選びになり、今もなお神ご自身の御手で保たれていることを忘れない歩みをしたいものです。

 

Ⅱ.第2に、「選ばれた種族の 種族」というクリスチャンのアイデンティティーの一つを示す立場は、キリストの新しいいのちによって新しく生まれた、キリストの血につながる一族であることを示すものです。

創世記12章2節で神はアブラハムに対して「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる」とお語りになりました。神の選びは最初にイスラエル民族に対して現されました。しかし、神に選ばれたイスラエルの民の歩みは、神を裏切る罪を繰り返し、南北に分裂し、北イスラエル王国はついにアッシリヤ帝国によって滅ぼされます。その出来事を背景に神とイスラエルの民の関係を記しているのがホセア書です。神の忍耐は、姦淫の女ゴメルと結婚した預言者ホセアの歩みの中に現されます。本当の夫を捨て不貞を繰り返す妻のように、イスラエルの民は自分を造り、選び、愛し、導いてくださる神に背き続けました。そのホセア書の中で、愛されるはずのない者を愛する神の愛を語っているところを引用したものが今日のペテロの10節のことばです。「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です」と語られています。

また、ペテロの手紙の冒頭1章3節には「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて」くださったことが確認されています。ペテロは、試練の中を歩むすべてのクリスチャンたちに、私たちは十字架のキリストの血によって新しい一族となったのだ、と主にある連帯を語って励まします。旧約聖書においては、血の継承であるイスラエル民族の姿が語られてきました。神に選ばれたユダヤ民族は、純粋な民族の血を誇りとしていました。しかし、民族の血統は、罪も受け継いで行く歴史を築きました。彼らは、人間の罪を象徴する一族ともなったのです。だから、神は、御自分の愛する御子イエス・キリストを死に渡して、私たちの罪を赦し、復活により永遠のいのち、新しいいのちにつながる一族としての立場を私たちに与えられました。すべてのクリスチャンは、人間の血による繋がりではなく、キリストが十字架で流された血によって新しいいのちにつながる一族となったのです。それをペテロは、「選ばれた種族」と呼んでいます。

種族」とは、「誕生、生まれる」ことを意味します。私たちはまさに、キリストの福音を受け入れて、新しく生まれたのです。神に選ばれた人間の血族でありながら、イエス・キリストにつまずき、過去と伝統にこだわり、新しく生まれることのできなかったユダヤ人たちのこともペテロは意識しているのです。彼らの血族としてのこだわり、伝統へのこだわり、偉大な信仰の父アブラハム以来選ばれ続けた民族としての誇りは、新しい時代が到来し、キリスト昇天後に迫害が起こった時、かえって彼らの信仰の妨げとなりました。今、私たちはみんな、神が送ってくださった御子キリストの十字架の血によって新しく生まれた者としての「選ばれた種族」です。生まれたばかりの赤ん坊が輝くばかりのいのちの喜びと力に満ちているように、私たちも神によって新しく誕生したキリストのいのちの力をもたらす歩みをしたいと思います。

今年一年、あなたのなすべきことは何でしょうか。失敗しても、痛みを負っても、人のせいにしないで、それでもなお神があなたを選んでおられることの意味を考え続けてみてください。また同時に、今年一年、兄弟姉妹の必要を敏感に感じ取り、励まし合い、共に生きる歩みをしましょう。私たち教会は、ひとりでいることも、他者のために生きることも、そのどちらも出来る神に「選ばれた種族」なのです。

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